♪むすーんで、ひーらいーて、手を打って、むーすんで~♪ まーだ開いて~手を打って、そーのー手ーを、あだま~に~♪
バッチャの歌う童謡は、どれもこれもが正規の表現と少し異なる…。 バッチャ・七十八歳。私の、尊敬してやまない女性である。七十八年も生きていると、何もかもが一度は経験してきたことなのか、バッチャに相談すると必ず唱えてくれる呪文のようなものがある。その呪文の言葉が、「こりゃまたせっ」という言葉なのだ。こりゃまたせっ…?
この呪文は非常に便利で、どんな悩みもこの呪文を聞くと「たいしたことない」ような気がしてくる…という、すごい言葉である。
「こりゃまた」の「こりゃ」が陽気さを出しており、「また」は、全ての苦悩は誰しも経験してきていることだという安心感を与え、「せっ」で、勢いよく吹き飛ばしている。不思議な言葉よ、こりゃまたせっ。そして「こりゃまたせっ」は、どんな場合でも使える便利な言葉なのだ。
「バスが来なくて二時間待った」「こりゃまたせっ!」「ガンにかかって、二年の命だ」「こりゃまたせっ!」「コートを脱いだら前掛けしめてた」「こりゃまたせっ!」
ね? こんな風に。使い勝手のいい言葉なんである。流石にバッチャも大病の話とかになると、同じ「こりゃまたせっ」でも非常に気持ちの入った、「こんりゃぁまったっせっ」という表現を用いるのだが。 基本はやっぱり「こりゃまたせっ」なのだ。
経験は人を豊かにする。赤ちゃんの「泣き」に対して免疫がないと、新しい母親はひるむ。「何故!?何故なの?なんで泣くの?」と疑問形になる。だがしかしそんな泣きっぷりを三度も四度も経験してくると、何の疑問も持たなくなる。泣きたいから泣いているのだ。腹減ったか眠いか気に入らないかしてるのだろう。 バッチャクラスになると、よほどの「泣き」でないと、泣いたうちに入らなくなる。師匠を預けて取材に出かけると、帰ってきてからバッチャは言う。「なーんも、泣いてねよー。泣かなかったよー」と。
「本当ですか!よかった、よかった!」
しかし、夫のケンさんに言わせると師匠は、「狂ったように叫んでいた」らしく。バッチャの「泣いてない範囲」の広さにドキドキさせられる。だけどもバッチャにとっては泣いたうちに入らないのだ。
バッチャの「こりゃまたせっ」を聞いてると、何でも悩むほどのことじゃあないような気がして、「アハハ、まあいっかー」と思えてくる。 試しに声に出して言ってみよう。「こりゃまたせっ!」
「こんな風に喋ってみると、変に落着いてくるのですよ。」
「こりゃまたせっ」