ケンさんの悟り

ケンさんに出会ったのはもう2000年よりも前の年になるんだけど、

その頃私たちは大学生で、

ケンさんは「わー(俺)はもう、二十歳の時に悟ってまったはんで、

残りは余生だんず」と語っていて

一体何を悟ったんだろうかとずっと気になっていたのだけど

そんなケンさんと結婚し、一緒に10年暮らして、

ようやくケンさんが悟ったものが何なのかわかり始めたのだ。

 

それは、悟っても全然楽しい事じゃないしむしろ残念な気持ちになることの方が多いという

ケンさんの悟りだったのだけど、

十年以上かけて長々とケンさんの話を聞き続けて今、実感としてわかったこと。

それは、

昨日のブログにも続く話なんだけど

「人間には価値がない」ということなのだ。

 

どうしても人間は、人間目線でものごとを見てしまう。

だから、生きる価値があるのないのという妙な判断を持ってしまうのだけど、


動物は自殺しないじゃないですか。



私が生きることにうんうんと悩んでいた時、

ケンさんは怒ってこう言いました。

「みんな理由がなくても生きているのに、自分だけ生きる理由が欲しいだなんて

欲張りだ! 生きる理由なくても仕方なく生きればいいっきゃさ!

どれだけ偉そうだのよ!」




と……。人って本当に、生きる価値だとかなんだとか、そんな妙な価値観に囚われてしまいますよね。

ケンさんにとって人間はものごとを本当に真っ直ぐ見ない変な生き物なのだ。

腸内にいる菌にでさえ、善玉菌だとか悪玉菌だとか、すべてを人間の都合のいいようにしか理解しない

困った生き物なのだ。

 

 

死ぬ理由がないから生きるという選択をしたケンさんに出会ってから

色々あって結婚し、子どもを2人も産んで今に至るのだけど

ケンさんは未だに死ぬ理由がないから生きている。

 

ケンさんはそもそも、生まれ変わりたくなどないのだけど、どうしても生まれ変わるのなら

人間とは関わりを持ちたくないから深海に行くのだそうだ。私は、

生まれ変わったらバッタがいいなと思っていたんだけど

ケンさんが深海に行くのなら

深海の土の中にいるバクテリアにでもなろうかと思っている。

これをランディさんに言ったら、

「さすがケンさんねえ。私なんてナマコだもの、まだまだ浅瀬だわ!

と言ってくれた。

ナマコに生まれ変わるのもいいなあとは思うのですが。(笑) 

 

昨日、

なぜ自分は人間に生まれてしまったのだろうと考えてから

眠ったら、

さっき起きた途端に答えがありありと分かった気がするので

夜中にこれを書いているわけだけど。

やっぱり人って、人と関わり合うために生まれてきているんだと思う。

 

相手が人でないにしても、動物とか、植物であったとしても

それと関わり合うために生まれてきているんだなということが

すごく、実感としてわかってきたのだ。

 

そして、関わり合いっていうのは断崖絶壁でロープを握りあっているようなもので

一つのロープを放さないと、新しいロープは握れないようになっている。

これは、過去の経験から思ったことで。

過去に一時、その人に何かあると虫の知らせが走って、

すごくいいタイミングで会うことができたり、電話するとか、絶妙なタイミングで相談することが

できるという、まさに蜜月が訪れた

友人がいてラブラブな雰囲気になるんだけど

ある時期が来ると「離していいタイミング」がやってくる。

 

それはむしろ「離さなきゃいけないタイミング」になり、離さないと様々と悪いことが起こるタイミングになる。

何故かというと、私がその人のロープを握っている限り、

私も、その人も、新しいロープを握れないからだ。

 

自分に何本か握れるキャパがあるからといって、その人のロープを離さないと

その人を一生涯支えられるような大事な未来の出会いを奪ってしまうことになる。

だからそのタイミングが来たら間違いなく、ロープは離さなければならない。

そうじゃないとどんどん悪いことを神様がわざわざ起こしてくれるのだ。

「離しなさい、離しなさい」と、気付かない人間に気付かせるのに

神様は一生懸命不幸を用意して、大変な目に遭わせてくれる。

 

それがもうわかるから、離していい時はすぐに離せるようになった。

昔は食らいつかなきゃいけないのかと思っていたけど、そうではないんだ。

成長したんだなあと思う。

 

「そんなこと言ったら苦労を共に分かち合う人がいなくなるんじゃないの?

サラ金に追われながら一緒に借金を返済して、場末でコロッケ屋をやりながら愛し合う夫婦とかいるじゃん」

と言われたら、それはその夫婦が、サラ金に追われることを全然不幸と感じてない証拠だと思うだ。

私そう、思うだ。

 

サラ金に追われてなお、儲けが出るほど愛し合っているのだ。

なぜ、人に感性というものが存在するのか。

その人にしか感じられない幸と不幸があるのか。

これって、ものすごく面白いことだと思うのだ。

それこそが

生きてきた中で勝ち取ってきた感性というもので、間違いなく「自分」と呼べるものだと思う。

私、そう思うだ。(笑)

 

それで、なんでこんなことを書きたいかと思ったのかというと、

隣で寝ている4歳児と8歳児の寝顔が、とてもスヤスヤとしていて

この子達は頭に来た時は憤慨して怒り、親にも文句を言い

感情を殺すことをせず、

本当によく育ったなあと感じたからなのだ。

人には、価値なんて全然なくても、祝福されている。

 

祝福された存在ということが

無価値であっても生きていく動力になるのかもしれない。

 

私、そう思うだ。

 

 

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  1. 久作 より:

    私は悟りを開けるほどにはなっていないけれど、「親」という者になった時に、自分の親に対して「すごいなぁ!!!」と素直に思いました。そして「人」で良かったと
    思っています。昆虫だと親に遭う機会がほとんど、ないじゃないですか。「ありがとう」が言えません。「生まれてくれてありがとう」も「生んでくれてありがとう」も伝えられないのです。せっかく、人間をやっているので、「ありがとう」をたくさん伝えたいです。

  2. yamadaswitch より:

    いいことです~。なんぼ、いい子に育ったんだべって親御さんも喜んでますよ!