ダーリンはブッダ 最終回 神様の言う通り

イラスト/ナカエカナコ             
ダーリンはブッダ 最終回 神さまの言う通り
               
「ヒカルさん、あなた剛玉君と何かあったの?」
 翌日、ヒカルは学校には行かずにデブ子のマンションにガリ子といた。三人でコタツに入ってミカンを食べている。ガリ子もミカンを5ミリほどの粒にまで分解し、一粒一粒食べている。ヒカルはミカンを剥きながらぶるぶると首を振った。
「それじゃ、他の男の子と何かあったのかしら?」
 ガリ子の鋭い質問に、ヒカルは苦悶の表情を浮かべた。
「なんでもない……」
「本当に?」
「なんでもなく、ないかも……」
「やっぱり。何があったの?」
「北校の、相原さんに……昨日、キスされた」
ガリ子はヒュウと口笛を吹いた。
「す……すごいじゃない。ヒカルさん、やるわね。だけどヒカルさん、あなた剛玉君のことが好きなんじゃないの?」
「ええっ、そうなの?」
 デブ子が今、初めて気付いたように言った。それよりもガリ子には私が冴馬を好きなことが何故バレたんだろうか……。
「ヒカルちゃんも冴馬君のことが好きだったら……私、身を引こうかな。私、ヒカルちゃんの方が好きだもの。」
 デブ子が泣けるような台詞を言ってくれる。ヒカルは、デブ子のぬいぐるみのような巨体が大好きになっていた。デブ子は透明なくらい、気持ちがきれいなのだ。
 
「相原さんっていう、北校の総長で、三年生なんだけど。私、ずっと彼のことどこか体の弱い人だと思ってたの。いつも咳き込んでるし。だけど、話を聞いてると面白くて、本当はたくましい人なんだって昨日、思ったの。本当はキス、したくなかった。だけど、私、よけれなかった。なんだか、吸い寄せられるように、キスしてた……。」
「……これは、恋ね。」
「ううん、恋とは違う……だけど、キスされたら、キスされたことばかり考えてる。何故だか意味がわからない。意味を考える能力がなくなって来てる。でも、本当は私……冴馬とキスがしたい……。そうじゃないと、何がなんだか、私の気持ちがわからない。」
 
「冴馬君ね……冴馬君って、キスなんかする柄かしら?」
 冴馬のことを思い浮かべると冴馬のきれいな髪や、意外とたくましい血管の浮き出た白い腕や、隣にいて何度もドキドキした形のいい肩が自分から遠のいてしまいそうで恐かった。冴馬のあの太陽に照らされた大陸の人のような匂いが、無性に恋しい。
 
「私、冴馬とはずっと、一緒に歩いているだけでいいって思ってた。尼僧みたいにずっと潔癖を保って、嫌われないように一緒にいれたらいいって思ってた……。だけど、たった一瞬のことなのに、相原さんが消えない……。」
 
 ガリ子は難しい問題を解くような顔をしてキッパリとこう言った。
「消えないのは困ったものね……どう? いっそのこと、両方と付き合えば。」
「そ……そんなのできるわけないでしょう!」
「そうかしら。だとしたら、あなたがどうしたらいいのか、あなたはちゃんと知っているの? ヒカルさんって、昔の少女マンガみたいに無駄なことしそうだから私、今のうちにいい方法を教えるわ。」
「えっ……。」
「誰でも知ってる方法よ。とても簡単だからみんな忘れてしまっている魔法があるの。小さい頃によく言ったでしょう? か・み・さ・ま・の……」
「い、う、と、お、り……?」
 私とデブ子はハモってしまった。ガリ子はにやりと笑った。
「その通りよ。ヒカルさん、神さまの言う通りに行動すれば大体のことは合っているのよ。」
 
「でも私、うちが宗教で神さまを利用してこじんまりと稼いできたから、神さまなんて、信じられない。」
「バカね。信じる信じないじゃないのよ。その辺にいるのよ! 八百万の神なんて言ったらその辺に八百万よ。思った通りに動けばいいのよ。大体、キスされたぐらいで悩むことないのよ。キスぐらいじゃ子どもだってできないわよ。いい? あなたが、好きだと思ったらキスしていいのよ。それに、好きな人枠がたった1人だとは限らないじゃない。」
「ええっ、1人じゃないの……?」
「別に1人でもいいけど、そんなに悩むんだったら両方とキスしてから悩めばいいのよ。私、痩せたい痩せたいっていつも言うくせに、一向に痩せない人を見るとイライラするの。あなたの痩せたさは口先だけ? って思うのよね。ヒカルさん、あなたは子どもみたいに『好きだけどもう会わない』とか、そんな台詞言わないわよね? 言ったら私、絶交するから。」
「わ……わかった。」
 ガリ子の正直さは、他人に対して正直なんじゃない。自分に対して正直なんだ。そしてそう正直であることを私にも要求してくる。
 ガリ子は、色々な条件を取っ払って、本当の私が何をしたいのかを問うてくる。私は、誰とキスがしたいんだろう……。
 相原さんにキスされた時、びっくりするくらい、相原さんの気持ちが伝わってきて、私は、そう。困ったのだ。こんな風に、私も冴馬のことが好きだから。心臓がつぶれそうなくらい、好きだから……。
 
 一日経って学校へ来ると、昨日は胸がつぶされそうなほど辛いと思った出来事が、なんてことのないように感じた。みんな、精一杯に生きているのだと感じて驚いた。
 昨日、アイラ先輩はサイトを更新して新しい悪口を書いたのだろうか。それすらも、どうでも良いことのような気がした。彼女はきっと、思う存分傷つきながら育って、その傷を同じ分だけ誰かに返さないことには、治らない病気を抱えているのだろう。
 昨日の夢には冴馬と、アイラさんが出てきた。彼女は一生懸命言葉を紡いで言葉によって誰かを操ろうと必死になっている。だけどその彼女の腕を誰かが操り人形の糸で操っている。糸がこんがらがって、彼女はぐるぐる巻きにされている。彼女はベッドの上で口から蜘蛛のように糸を吐き、その糸が全身に絡まっている。糸を断ち切る方法がわからないねと私は部室で冴馬に相談している。
 すると冴馬は短めの斧を持って、「僕は彼女がその糸を切る手助けをしたい」と言って、自分の腕を蜘蛛になったアイラさんの前でザックリと切り落としてしまうのだ。私が叫ぶ。画面が真っ赤に染まる。冴馬はもう一方の腕を切るようにアイラさんに片腕で斧を渡して言った。
 
 「心の赴くままに、傷つけていいのは僕までなんです。どうか、ヒカルさんを傷つけないで下さい」
 冴馬は冷静に語っているのだけど片腕からの出血が止まらなくなっている。私は半狂乱になって「冴馬のバカ! 冴馬のバカ!」と叫んでいる。だけど血だらけになった冴馬があまりにも冴馬らしいので、私はそのままの腕のない冴馬を抱きしめて愛していると思う。
 その時、夢の中だけど私は、両腕のなくなった冴馬を一生、守って生きていこうと思った。そうか、私の思う好きって、こういうことなのか……。
 冴馬が、好き。冴馬が、大好き……そう思っていたところで、目が覚めた。
 
 目が覚めると私は、枕がずいぶん濡れていることを知った。眠りながら泣いていたらしい。心臓がバクバクと鳴っていた。
 あまりにも強烈な夢で、現実の私達に起こる小さな問題が霞んで見えそうだった。夢の中で冴馬の両腕がなくなっていたから、冴馬の身に何か起こらなかったかどうか起きてからひどく心配した。心配しながらも、冷静さを取り戻すと唇が熱を帯び、昨日触れてしまった相原さんの唇を思い出してしまった……。キスって一体、何なのだろうかと思う。
 冴馬にキスして、と言ったら、冴馬はキスしてくれるのだろうか。冴馬のことは全然読めない。
 
 夢のせいで心と体が珍しいバランスになっていて、体がフワフワと浮いているような気持ちになっていた。学校の階段を降りながら昨日のことを一切忘れてしまって、いつもの通りに「おはよう」と言うと、つられて昨日私を無視した女の子が「おはよう」と言った。不思議な、夢の延長線上にあるような一日だと思った。
 
 仏教部の部室に行くとやはりそこには、「蕎麦」と書かれた紺色の暖簾が下がっていて、「ああ、やっぱりドアは壊されて蕎麦屋の暖簾になったのは現実だったんだな……」と思ったのだけど、中に入ると思いもかけない奇跡が起こっていた。
 仏教部の部室に、ガリ子と、ずっと学校に来ていなかったデブ子が一緒にいたのだ。
「ヒカルちゃん、おはよう」
 と、デブ子は言った。体に合う制服が間に合わなかったのか、紺色の制服と同じ色のニットのワンピースを着ていて、それがすごく似合っていた。
「昨日のヒカルちゃんが心配で、学校に来ちゃった。今日から、ちょっとずつ通おうと思うの。」
 そして小声で私に囁いた。(もうキスのこと、大丈夫? 心配ない?)と。
 
 私はデブ子に心配されている。きっと、私が彼女たちを心配するよりもずっと、ガリ子とデブ子は私を心配してくれている。
 顔を上げると冴馬がにこやかに私の方を見て微笑んでいた。
「冴馬……」
 私は言った。近づくと冴馬の匂いがする。冴馬の匂いは私を暖かく包んでいた。苦しいほどに香る、冴馬の匂い。とくん……と、自分の心臓が動くのを感じた。
「私、冴馬のことが好きよ。」
 そう言うと、やっぱり冴馬は全然読めないけども邪気のない笑顔でこう言った。
「僕もですよ、ヒカルさん」
 と……。
                              ダーリンはブッダ・完