ダーリンはブッダ 第9回「北校へ」

イラスト/ナカエカナコ   
 
ダーリンはブッダ 第9回「北校へ」       
                                       
 ヒカルがさらわれた瞬間、冴馬はデブ子の部屋で紅茶を飲んでいた。そこに、小さな違和感が訪れた。
「…………?」
「どうしたの? 剛玉君」
「何か、今、起こった気がする。何だろう、この感じ……」
「おなか、痛いの?」
「いや、なんか変な予感がする……こういうことって、よくあるんだ……」
 すると、マンションのドアを乱暴に叩く音が聞こえた。
「おい、冴馬! 北校の連中がヒカルをさらって行ったぞ! ヒカル、バイクに縛られてどっかに連れて行かれた! あの方角だと北校だ!」
 冴馬は血相を変えてドアを開けた。
「高橋君、それ本当?」
「バカヤロ! 嘘ついて何の得があるんだよ!」
「すぐ、行く」
 すると、デブ子が冴馬の服の裾をつかんで言った。
「待って! あたしを置いていかないで!」
 冴馬が振り返る。
「大山さん、今はそれどころじゃないみたいだ。多分、ヒカルさんは僕のせいでさらわれた。僕は、ヒカルさんを助けに行きたい。」
「あたしを置いていくの!?」
「……いや、置いていかない」
「じゃあ、どうするの?」
「一緒に行こう」
 冴馬はデブ子の顔をじっと見つめて言った。デブ子はここ数ヶ月の間、外に出ることに強い恐怖を感じていた。体が風呂場に入らなくなってからはお風呂にも入っていない。食材の買い出しに冴馬について行きたかったが、玄関を乗り越える勇気がなかった。微笑んで冴馬だけを送り出したが、自分の太った姿を人に見られるのがこわかった。もっと、繭の中のような自分の部屋の片隅でじっとさなぎのように動かず、羽が生えてくるのを待ちたかった。しかし、それがいつになるのかはわからなかったし、永遠に訪れないのかもしれなかった。
「あたし……嫌っ!」
 すると冴馬は落ち着いてデブ子に語りかけた。
「大山さん、大山さんはね、とても辛いことがあって現実を遮断してしまったけど、現実っていうのは、面白いものなんだ。何が起こるかわからないんだよ。君が傷ついて、今も痛いのはよくわかる。だけど、全ては向こうからやってくる。今、君に向かって波が押し寄せて来ている。それに答えなきゃ沈むだけだ。きっとこれは、君が君を乗り越えるチャンスなんだ。だから、僕に賭けてみて。」
「ええっ……?」
「これから、何が起こるのか、身体で確かめに行くんだ。大山さん、外の空気を吸いに行こう。吸ったら、何か起こるかもしれないよ」
 デブ子は振り返ってマンションの部屋を見つめた。デブ子が、犯されそうになっても、数ヶ月の間ロールケーキだけを食べ続けても、変わらず、しんとしていた部屋を。いつも変わらず止まっていた時を。
「……わかった。一緒に行く。……でも、血糖値下がるとボーッとするから、ロールケーキ持って行っていい?」
 冴馬は微笑んで言った。
「いいよ。」
 するとタカハシの影からガリ子が現れて言った。
「裕子ちゃん、裕子ちゃん! 本当に、表に出てくれるの?」
「咲子ちゃん……」
「あたし、あなたのこと、一番の友達だと思ってるよ。だから、あなたが外に出てくれるの、本当に嬉しいよ……」
「咲子ちゃん……!」
 デブ子とガリ子は手を取り合った。その間、冴馬はタクシーを呼んだ。
「4丁目の足立マンション3号棟です。」
「って、お前、タク代払う金、あんのか!? 北校遠いぞ!?」
「いや、ない。」
「ないって……」
「大丈夫。乗ればなんとかなる。さあ、乗り込むよ!」 
 秋の夜は足早で、夕方五時を回る頃には全てが闇に包まれていた。
 
 相原が目を覚ました時、自分の膝下に暖かな体温を感じた。そしてふと見ると、自分の憧れの人、ヒカルが自分の膝枕に眠っていたのである。
「うおっ……!?」
 ヒカルはすうすうと寝息を立てている。相原は、歯を食いしばってその寝顔を見て言った。歯を食いしばりすぎて歯が割れそうになると、やっとの思いで声をもらした。
「がっ……可愛い……」
 と。ヒカルの安らかにつぶられた瞳、愛らしい睫毛、ピンク色に紅潮した頬。形の良いピンクの唇に相原は、吸い寄せらそうだった。普段、ヤンキーばかりの学校で可愛い物など一切見る機会のなかった相原は、自分の膝の上で眠るヒカルに心の底から感動していた。
(可愛い……なんだこれ……なんでこんなに可愛いんだ? ユージのヤツ、こんな可愛い女を殴って気絶させるなんて……って、ここどこだ!? 畳!? 畳ってことは……茶室に彼女と二人っきり!?)
 するとヒカルがまぶしそうに目を細めて声を漏らした。
「う……う〜ん……あっ」
 パチリとヒカルの目が開いた。相原は顔を真っ赤にして固まった。ヒカルはすぐに身体を起こすと、周りを見渡して言った。少し声が脅えている。
「ここ、どこですか? あ、あなた……北校の……前に会った」
 相原は答えられない。言い訳を考えるつもりが、ヒカルの姿を近くで見て完全に理性が飛んでいる。血が上り過ぎて言葉にならない。中学生でもないのに。
「んーぐっ、おう、な、名前……」
「えっ?」
「名前っっ、をっ、をっ、教えてくださいいいっっ!」
「あ、真光……。ヒカルです。」
「マコト、ヒカル……!?」
 途端に相原の頭の中に教会の鐘の音が響き始めた。カラーンカラーンと鐘が鳴り、青空の下、光溢れる白い教会の前で相原は鳩が飛び立つのを見ていた。
(ああ、もう、これ以上どうしたらいいんだ? なんて真っ直ぐな名前なんだ……あ、なんか痛い。胸が痛い。胸が痛いって本当に痛くなったりするのか? なんか痛い、すごい痛い。痛い痛い痛い……)
 相原が脳内で数年分の旅に出ている間、ヒカルは相原を見て、「害はなさそうだ」と感じていた。
(この人、北校の制服を着ているけど前にタカハシがやられた時教えてくれた人だし、害はないみたい……。なんで私と一緒に閉じ込められているんだろう? そうだ、早くここから抜け出さなきゃ、きっとさっきの人達が来て乱暴される……!)
「あの!」
「ハッ、ハイ!」
「ええと、名前……」
「名前!? あ、相原です。アイハラサトシです!」
「あ、相原さん……ここから抜け出す方法を考えましょう。なんか、窓がないんだけどこの部屋、鍵、開いてる?」
 北校校舎の外れにある茶室は、普段、どの生徒も近寄らない場所である。「茶室がある」という存在自体が知られていない。窓のない部屋で、蛍光灯の明かりだけがチラチラと白く点滅している。ヒカルがドアノブに手を回し、思いっきりひねる。ドアはガチャガチャと言うだけで手応えがない。
「ダメ……外から鍵がかかってる……あたし達、どうなっちゃうんだろう……」
相原もドアノブをガチャガチャと回し、ヒカルと鍵がかかった部屋で二人きりであることを意識すると、途端に顔が紅くなってきた。
「だっ、大丈夫です……俺が、俺がなんとかしてみせます! それより俺、俺は、アンタのこと……えっと、ヒカル、さん……」
「えっ……」
 ヒカルが顔を上げた。相原の身体中が痛み始めた。心拍数が上がり、喉が押しつぶされそうに苦しい。(これがドリカムの歌う、全身が心臓になったみたいという状況なのか!?)相原は顔を歪ませて変な顔になり、恥ずかしくて顔を覆うとしゃがみ込んで胸の痛みに耐えた。
(うう……苦しい、恥ずかしい、死ぬ……もうダメだ……何で? 何が起こっているんだ、この俺に……)
 ヒカルはそんな相原を見て、不思議と落ち着いて来た。
(なんだろう……自分よりも窮地に陥っている人を見ると、逆に安心してくる……そこまで追い込まれなくても大丈夫って気がしてきた……。大丈夫。落ち着けばきっと大丈夫。冴馬が……助けに来てくれたらいいんだけど、それは、夢だよね。何でだろう、いつも頭の中に冴馬がいて、私はそれを繰り返し再生するだけで何時間でもじっとしていられる……) 
 ヒカルはとても落ち着いて、もはや混乱しすぎて泣きそうになっている相原に言った。
「大丈夫よ、泣かないで。ここのドアは無理でも、他に出られる道があるはずよ」
 相原はヒカルの優しさに、聖母を見るような心持ちでいた。
(だっ、ダメだダメだ! ここで格好良さをアピールしないと、何のために一緒にいるんだかわからん!)
 相原は立ち上がった。黙って学ランの上着を脱ぐと、ヒカルに差し出した。
「さ、寒くなってきたからコレ、着てくれ。頼む……」
 初めてのことにヒカルは驚き、微笑んだ。
「ありがとう……あ……、あったかい」
 ヒカルは学ランを肩にかけると、暖かさにドキリとした。相原は立ち上がると背が高く、黒髪の隙間から一重の涼しい目が覗いた。学ランからは冴馬とは違う、男の子の匂いがした。
 
 「それでね−、女房が俺のこと全然大事にしないのよー。その上、うちは同居でしょう? 家に帰ると年取った母親と機嫌の悪い女房がじとーっと待っててやりきれないのよ。毎日がそうだと俺、何のために生きているんだかわからなくなっちゃっうのよね。だけどね、俺にも夢があるのよ。今はしがないタクシー運転手だけどさ、家帰ったら女房の愚痴聞いて飯食って腰痛いの我慢して寝るより他ないんだけどさ、ロトシックスで1億当てたらもう、家族全員でインドネシアで暮らすっていう夢があるの! ほら、インドネシアは物価が安いでしょう? 1億あったら一生暮らせるよ!」
「ハハハ……運転手さん、奥さん思いなんですね」
 冴馬は優しく、静かに微笑んだ。
「ああ〜、もう! なんだか兄ちゃんの顔見てたら余計なことばかり喋っちゃってごめんな! だけど喋ったらなんかすっきりしたなあ……そっか〜、俺、インドネシアに行けばいいのか〜。知らなかったよなあ……ハイ、到着。ここ、正門のところでいい?」
「ハイ。ありがとうございます。」
 そう言うと冴馬は運転手に向かって深々と、非常に深々と頭を下げた。ピシッと形の決まった礼は、感動するほど美しく整っていた。
「ええっ!? ちょ、ちょっとそんな、そんなに頭を下げてもらわなくても! ええっと、ええっ!? も、もういいよ! なんか俺も、ありがとう……色々聞いてくれて……」
「あの、お金……」
「えっ、お代!? いいよ! もういいよ! さあ、行った行った! 俺もインドネシア行くから! ありがとうな!」
 そう言うとタクシーの運転手は照れ隠しにぐるぐるとハンドルを回しながら道路でUターンし、顔を真っ赤にして帰っていった。それを見送るデブ子とタカハシ、ガリ子の3人は、先ほどまでぎゅうぎゅうに後部座席に詰め込まれていた。
「本当にタク代、なんとかなったな……」
タカハシが言った。
「うん。人には受け取った分を、返そうとする習性があるんだ。どんな人でも知らぬうちに偏りがないようにバランスを取っちゃうんだよね。タクシー代がなかったら、それ以上に与えることだよ。」
「お前ってけっこう、恐ろしいヤツじゃな〜。」
 デブ子はふらつきながら身体を起こした。元々、背が高かった上に幅まで広くなったので、デブ子はマンガに出てくる悪漢のように身体が大きい。しかし、心はどこまでも乙女なのである。
「剛玉君、暗いの怖い……!」
 そう言いながら冴馬に抱きついてくるが、力があるので冴馬の首が絞まりそうになる。
「お、大山さん、首がくるしいから、少し緩めて……」
「あっやだ、ごめんなさい!」
 夜の闇に浮かぶ北校校舎は、オレンジ色の外灯に照らされていた。夜空に薄く白い雲がかかって、その間から星が見えた。黙って見ているとガリ子に不思議な印象を与えた。
 ガリ子は、こんな時間にいつの間にか北校まで来てしまうお人好しの友人といるのが不思議だった。なんでこの人達は、私がガリガリなのに気にしないんだろう……気持ち悪いとか、そんな目で見ずにどこか、私を頼っている風でもある……。タカハシはガリ子に足の力がないことを知ると、黙って移動の時は肩に乗せてくれるようになった。こんなに高いところから景色を見るのは、小さな頃にお父さんの肩車で見て以来。私は今、世界一しあわせなんだとガリ子は思う。オレンジ色に照らされたこの空間に、一時、夢のような空間にガリ子はいた。
 「あっれー? 随分お早いお出ましじゃない? 駆けつけてくれてありがとう〜西校の新興宗教の皆さん♪」
 ドルン……というエンジン音とともにバイクのライトが冴馬達を眩しく捉えた。ユージが愉快そうにバイクに跨がり、小首を傾げて冴馬達を見ていた。その後ろには20人近くのモヒカン刈りとリーゼントの知能レベルの低そうな、血に飢えた野獣のようなヤンキー達が片手にビールの瓶を握りしめながらたった4人の獲物を痛ぶるさまを想像し、下品に笑い合っていた。
「フッハー! この間やられたばかりのヤツに、女が加わってどうするんだ!? そこのでかいのは結構、やってくれそうだけどな! ヒャーッハッハッハッハ! ヒャーッハッハッハッハ!」
 脅えたデブ子が冴馬の首筋にしがみついてくる。冴馬が静かに通る声で、北校の連中を見据えながら言った。
「どうしてそうなってしまったのですか?」
 と。
「アアン……?」
 ユージは顔をしかめて言った。冴馬はもう一度問うた。
「どうして、そうなってしまったのですか?」
 周りのモヒカン衆がぶち切れたように叫んだ。
「なんだテメエ、俺たちを否定しようってのか!? 上等じゃねえかよ!」
 エンジン音が野獣の咆哮のように響き、何台かのバイクが周りを八の字に走行した。
「否定は、していないです。むしろ、興味があるんだ……どうしてそうなってしまったのかに。あなた方はとても複雑で、強さを求めているように見えるけど、それは弱さの裏返しだ。愛情を求めて裏切られるのが怖いんだ。怖いから最初から求めずに破壊する……ただの臆病者だ……」
 臆病、という言葉にユージがぶち切れた。
「ンだとコラァ? ナマスみたいに細かく、きれいに切り刻んでやろうかあ?」
 するとメリケンサックを付けた巨体のモヒカン男が二人、冴馬の前に立ちはだかった。
「言ってくれるじゃねえか、兄ちゃん……あの世で後悔しな!」
 モヒカンが同時に冴馬に躍りかかった。その瞬間、太い拳に突然でかい足がのしかかり、一方のモヒカンに膝蹴りを食らわせ、倒れかかる勢いでもう一方のモヒカンにエルボードロップを食らわせた男がいた。タカハシである。ドサッという音をさせて二人のモヒカンが崩れ落ちる。
「弱えヤツだなあ……、この間は俺がわざとやられてやったってこと、知らなかったのかよ?」
「この野郎!」
 ユージの背後にいるモヒカン数人ととリーゼントの数人が躍り出た。
「お前らの動きなんて、この間ので全部見切ったっての。お前ら知らないだろうがよ、俺の兄貴は高校ボクシングのチャンピオンだぜ……オラアアアアアッッッ!!!!」
 タカハシが躍りかかると蹴り一つで確実にモヒカン達を潰していった。容赦もなく顔を狙っていくタカハシ。靴の先に鉄が仕込んであるヤンキー仕様のタカハシの靴からは、流線形に赤い血が舞った。
「タカハシ君、傷つけないで。忘れたの? 非暴力だよ」
冴馬が言う。
「お前、俺が誰のために闘ってるかわかんねえのかよ? お前はいいけど、そいつら女だろ!? 守らねえでどうすんだよ!」
 ガリ子とデブ子が同時にときめいた。自分のために闘う赤髪のタカハシが何故か格好良く見える。その時、タカハシの後ろに回った黒く長い髪を一つに束ねた男が鎖の付いた木製のヌンチャクを回し、一気に振り下ろした。
「危ない! 高橋君……!」
「ぐふうっっっ!」
 タカハシは頭に樫の木の一撃を受け、よろめいた。
「いい気になってるねえ……お調子者さん……」
 黒髪の男がヌンチャクを構えていた。長い髪が風に吹かれると刀のように細い切れ長の目が覗いた。
「あーらまー。セバスチャンも出てきちゃったねえ。今日はちょっと、面白いよねえ」
 セバスチャンと呼ばれた男からは知性が感じられた。力だけでなくちゃんと頭を使って攻撃してくるタイプだ。セバスチャンの本名は誠十郎だが、セージ、セーちゃん、とあだ名が進化していった結果、誠十のせの字しか残らないセバスチャンというあだ名になった。北校でもユージの右腕級の強さを誇るヤンキーである。
「……飛び道具使うなんて、卑怯じゃねえか……」
 タカハシが声を振り絞る。
「そんなことは靴先に鉄を仕込む前に言え」
 セバスチャンがヌンチャクを肩に構え、そこから腕を伸ばしたと思ったら水平に回し込んできた。瞬間にヌンチャクの連打がタカハシの顔面を襲う。ガリ子が叫んだ。
「イヤアアアアッッッ!」
 タカハシが崩れ落ちる。顔から鼻血を流して意識を失ったタカハシにガリ子が駆け寄った。
「高橋君!」
 駆け寄る途中で股関節が外れたらしく、ガリ子は「くうっ! 間接、外れた−!」と叫びながらカクカクとタカハシに寄り添った。
「よよよ、よくも、私の将来のダンナ様を傷つけてくれたわね……」
「……おいおい、アンタはかかってこなくてもいいだろう?」
 セバスチャンが目を細め、咥えた煙草に火を付けるとポッと煙草の先が赤い光に染まった。ユージは黙って煙草を咥えてセバスチャンの咥えた煙草からもらい火を受けた。
「あなた、高橋君の顔面を割っておいて、何を悠長に煙草なんか吸ってるのよ! タダで
は帰さないわよ!」
「っていうか、お前……ガリガリじゃないかよ……」
「摂食障害よ!」
 後ろにいるヤンキー達がざわめいた。
「おい……せっしょくしょうがいってなんだ?」
「あれじゃね? なんか食っても吐くやつじゃね? 食っても吐くから栄養にならねえんじゃね?」
 ガリ子はヤンキー達を真っ直ぐに見据えて言った。
「それは嘔吐をするタイプの摂食障害よ。私は嘔吐なんかしないわ。一日にリンゴ一個も食べないから、吐く量なんてないのよ。体に脂肪がほとんどないから、冬になると手足が寒くてシモヤケができるの。冷え性、半端ないわ。今も寒くて死にそうよ。だけど脂肪分のあるものを食べて太るぐらいなら、私は食べずに死んでいきたい。誰にも迷惑をかけずに静かに消えていくために私は生きているのよ。ほら、これが私が中学の時から一日にリンゴ半分で生きてきた証よ……」
 ガリ子はセーラー服の裾を胸の高さまでめくって見せた。ヤンキー達の間にどよめきが走る。
「お前、ガリッガリじゃないかよ!」
「薄い、薄すぎるぞ、あばら出過ぎだろ!?」
「なんか……コレ、可哀相になって来た……」
 ガリ子のあまりの痩せ細った体に、一同がどうにもならない感情を抱いた。何が起こったかわからず吠え出すモヒカンもいた。セバスチャンがユージに振り返って言った。
「俺、この女、殴れない……なんか、気持ち悪いし……」
 ガリ子はセーラー服の裾を戻すとセバスチャンに向かって言った。
「殴ってみなさいよ……言っておくけどねえ、私に一発でも手をあげてご覧なさい。あなた、殺人未遂じゃなくて殺人の現行犯で逮捕されるわよ! 覚悟はできているでしょうね!?」
 そう言うとガリ子は一歩、歩を進めた。すると自らが変な形で崩れ落ちた。
「アアアアアアッッッ! 関節、両方外れた!」
 デブ子が駆け寄ってくる。
「咲ちゃん!」
「アアア、あたしったら、ちょっとがんばり過ぎたみたい……股関節、両方脱臼してるっぽい。裕子ちゃん、あとで救急車呼んで……」
 ガリ子はそう言いながら、その場にくずれ、白目を剥いた。
「咲ちゃん、もう無理しないで!」
「って、なんか今度は太いのが出てきたぞ……!」
 ユージは煙草の煙をくゆらせながらデブ子を見つめて言った。
「ねえ? 西校の坊さん、アンタ、変なの集めるの趣味なの? 次から次へと変なのばっかり出てくるじゃん。」
 するとデブ子は急に立ちくらみを起こして息をゼイゼイと切らせながら膝を着き、振り返って冴馬に言った。
「冴馬君……大変、血糖値がどんどん下がってきてる。そこの、私の鞄……取っ……て」
 冴馬はデブ子に急いで鞄を投げ渡すと、大型のスポーツバッグの中からロールケーキの箱がゴロゴロと出てきた。箱には上品なデザインの金の文字でで「代官山 シェ藤井」と書かれている。箱を開け、ロールケーキを一本一口の勢いで食べていくデブ子。デブ子は次々にロールケーキの箱を空けていく。ヤンキー達が目の前で繰り広げられる光景にどうしていいのかわからず、うろたえ始めた。デブ子の過食ショーが始まったのだ。ロールケーキの鵜呑みを見て吐きそうになっている連中もいる。恐いくらいにロールケーキがデブ子の体内に消えていく。ムグムグと食べ続けるデブ子の姿を見たセバスチャンがたまらずに叫んだ。
「よく噛んで食べろ!」
 デブ子はびくっと震えて、セバスチャンを見た。周りのヤンキー達も同時にびくっとしてセバスチャンを見た。こんなことを言う彼を見るのは初めてだったからだ。
「お前……、太ってるからって太るような食べ方をするな! よく噛んで食べろ! よく噛まなきゃ食べ物の味がわかんねえだろう? 噛まなきゃ消化にも悪いしいいことない……って俺は、一体何を言ってるんだ!?」
 すると冴馬が言った。
「大切に育てられたんですね……」
「ハア!?」
 セバスチャンが振り返る。
「食べ物をよく噛んで食べるように、ご飯の度に親御さんが子供によく言って聞かせた……それが身についてしまっているから、大山さんがよく噛まないで食べるのを見て、あなたは言わずにおれなかった。」
「う……うるさいっ!」
「どうして、ご両親から受け取った物をそうやって卑下してしまうのですか? 思春期の成長ホルモンのせいですか? あなたがそう育ったのは、ご両親が苦しんで育てた結果なのに。どんな親でも……いなきゃこの我が身がいない。いなきゃ世界は感じられない。」
「うるさいっっ! 親のこととか抜かすんじゃねえ!」
「僕には両親がいません。」
 ほんの一瞬、闘いの場が沈黙した。
「いや、いたんだけど母が、父を刺し殺したので。僕は3歳の頃から施設に預けられて育ったので、両親って何なのかわからないんだ。だけど、こうして僕が生きているってことは、ちゃんとお腹の中で育てた母がいて、赤ん坊だった僕を誰かが育ててくれたんでしょうね……」
 そう言うとヤンキー達の集団から、嗚咽が漏れて来た。
(3歳で施設って……しかも両親、うちよりもヤバイじゃねえかよ……)
(刺し殺しちまったのかよ……)
 デブ子は重い衝撃を受けて、じっとしていた。冴馬はにこりと微笑んだ。すると、沈黙を突き破るようにユージは大げさなあきらめ声を吐き捨てた。
「ああ〜、ああ。お涙ちょうだいってわけなんかなあ〜、坊さん。」
 バイクに預けた体を起こし、こっちを向いてユージは大きな声を出して言った。
「悪いけどさあ、俺にはそんなの効かねーよ。……効かねえんだよ。なんてったって俺も、施設の出身だからさあ……親の顔とか見たことねーわ。あのさあ、親がいねえてめえよりもさあ、親がいるのに虐待された俺の方が悲惨じゃね? なんていうの? 育児放棄ってヤツ? 愛とかないんだよねえええ。だから生きてても、しょうがないんだよねえ……ケンカするぐらいしかさあ……」
 ユージの背中に月光が降り注いでいた。
 ユージの母親は、ユージを構うことを一切しない母親だった。
 話しかけることもせず、泣き叫ぶ幼児を一切、無視した。思うように育てられないと小さなユージを狭い押し入れの中に入れ、放置した。保育園から戻るとユージの相手はいつもテレビだった。ユージは人の言葉をNHK教育テレビの子供向け番組を観て覚えた。そのうちにユージは泣かない子供に育った。施設に預けられた4才の時既に、感情を出して泣くことが無駄であることを知っていたのだ。
 月光を受けて冴馬は白く照らし出された。その姿が普段の生活で見ることがない、この世ならぬ者に見えることに多少の畏れを感じながら、それでもユージには「これから起こることは自分の人生に何の影響も持たない」という、絶対的でよく慣れ親しんだ孤独をもたらしてくれると感じていた。ケンカをするときに感じる一瞬の昂揚とその後の孤独……ユージはポケットに手を突っ込み、左右に揺れながら、冴馬との距離を縮めた。ユージには一つだけ好きなことがある。ケンカの相手を人間から屑のような物質になるまで、殴りつけることだ。
 殴っているうちに相手の意識がなくなり、重たいただの物質になる瞬間が好きだ。虚無感が形になって現れるから。意味があるように見せかけている人間が、ただのゴミのように転がった有様を見せるのが好きなのだ。ユージの虚無感を受け止められるのは、ただの物体としての肉体に他ならないのかもしれない。
 冴馬とユージは向き合った。ユージは顔を斜めにして、体を左右に揺らしている。瞬間、冴馬はつぶやいた。
「揺れているのか、揺らされているのか……」
 と。
「ハア?」
 ユージが言った。
「僕にも、左右に揺れる癖があるんだ……。左右に揺れていると落ち着くんだ……それは、揺れているのか、揺らされているのか……誰が揺らしているのだろう?」
 そのときユージに感触として残っていた古い記憶が蘇ってきた。誰かが小さな自分を抱いて左右に揺れながら、自分をあやしている。その感触がありありと蘇ってきた。ユージの目から黙って一筋の涙がこぼれ落ち、「濡れた」と感じた。
 4才から16才まで涙を流したことのないユージにとって、それは最初何なのか訳がわからなかったが、本人の自覚もなく瞳から溢れてきた一筋の涙だった。
「赤ん坊は、たった一日放置しただけでも死んでしまう。生きているということは、誰かに大事にされた証なんだ。嘘だと思ったら、自分の手を見るといい。その手が動いて血が通っているのなら、何者かの意志が君を守るために働いた証拠だから」
 ユージは冴馬を見た。冴馬の眼は何をも恐れず、ただ静かに優しい眼をしていた。ぴくりと動いた自分の指先に、血液が流れるのを感じた。自分の血が指先を流れる音を聞いたような気がした。身体中を流れる滝のような音だ。それは、一度も感じたことのない感覚だった。
 その静寂を突き破るように突然、サイレンが鳴り響いた。
 北校の校舎に赤いライトが回転しながら近づいてくる。「何だ何だ!?」と北校のヤンキー達がうろたえ始めた。すると、今まで沈黙していたデブ子が、携帯電話を握りしめながら恥ずかしそうに言った。
「あの……私、救急車呼んだんだけど、咲ちゃんのことが心配だから、一緒に乗って帰ります。あと、高橋君も乗せていくね、意識ないみたいだから……」
 ユージはハッと我に返った。
「大山さんは、機転が効くね。」
 冴馬が言った。ヤンキーのモヒカンとリーゼント連中が警察のサイレンと勘違いして慌て始め、「マッポだ!」と叫んでバイクに跨がり、次々に逃げ始めた。セバスチャンも予想もつかない展開に煙草を咥えながら「何なんだ、これは……」と冷や汗を流している。
「ケンカの最中に救急車両呼ぶなんて、アリかよ……」
 2台の救急車が駆けつけサイレンがぴたりと止み、救急隊員が担架を担ぎながら降りてきた。ガリ子の肩をトントンと叩きながら「大丈夫ですか!? 意識はありますか!?」と声をかけている。「ええっ!? あなた、付き添いの人!? 中に入るかなあ……」と救急隊員はデブ子の体格を見て恐怖に顔を引きつらせたが、デブ子は勢いで乗り込んだ。
「剛玉君、あたし咲ちゃんに付いていくから、ヒカルさんのことお願いね!」
 デブ子は自分の体を押し込めるように救急車の中に乗り込み、自分で車両のドアを閉めた。気絶したタカハシも運ばれていく。一連の騒ぎに呆然としていたユージだったが、振り返ると冴馬に向かって言った。
「坊さん、アンタの頭。かち割って脳みそ中から出してやろうと思ったけど、また今度にするわ。俺は北校のユージ。覚えておけよ……」
 冴馬はフッと微笑んで言った。
「ユージ、さんですね。また会いましょう……」
 ユージはメットを被りながらバイクに跨がると言った。
「そうそう、アンタの関係者の女の子ね、学校の中にいるから。まあ、今頃はもう大変なことになっているかもしれないけど! じゃあ!」
 そう言うとユージの乗る改造した黒のホンダCB1300はドルン……という音を立てて弧を描くように校舎前を半周し、夜の闇へと消えていった。ユージの後を追うようにセバスチャンの黒光りするハーレーダビッドソンのバブ・ジャパン・ソフテイルがでかいエンジン音を立てて追いかけていく。救急車のサイレンが再び鳴り出すと、冴馬は北校の校舎の中へ急いだ。
 
 あと少しで手が届きそうなのに……届かない。この手は届くの? それとも……。 
「もう少し、右! もう少し! 相原君、重くない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫です。大丈夫に違いありませんっ! 重いだなんてとんでもない!」
 相原が肩にヒカルを乗せて顔面を真っ赤にしながら茶道部の茶室にある天井のダクトの下で直立していた。
「やだ! ここもネジがきつくて開かない……」
「えっ?」
 相原が上を向くと視界にヒカルの長く伸びた足と白い物がちらついた。ヒカルはカッと赤くなって相原の顔面を蹴飛ばした。
「こっち、見ないで!」
「すず、ずびばせん……うお、ああっっとう!?」
 顔面を蹴られた相原が体勢を崩して前のめりになると、ヒカルは足場を失い「キャーッ」と落下してきた。それを相原が根性で床から守ろうとすると、ヒカルは相原の胸に覆い被さるような形で受け止められた。
「いで、いででで……」
「だっ、大丈夫!?」
(今、一瞬彼女の顔が俺の胸のところにあった気がする……なんか、どうしよう。頭がおかしくなってきた。心臓の音、半端ないし……蹴られても嬉しい。どうしたんだ、俺……) 
「相原さん、ごめん! 無理させちゃって。だけど、ここしか外に出れる方法なさそうだし……なんとか、がんばろう!」
「が、がんばります……だけど俺、ヒカルさんといると俺……頭、痛くなるんです……胸、胸も痛いし……」
「えっ」
「いや、多分……い、いい意味で!」
「えええっ?」
 ヒカルは相原のすぐ側にいる。手を伸ばせば届く距離に。だけど相原は体が硬直しすぎて腕を伸ばすことができない。恥ずかしくて顔を見ることもできない。指先が固まって動かなくなっている。ヒカルと一緒にいるというだけで。
「俺、ヒカルさんといると、頭が真っ白になって……どうしていいんだか、わからなくなるんです……!」
 相原が勇気を振り絞ってそう言うと、ヒカルは顔を真っ赤にして相原を見た。
(えっ……)
 と相原に魔法のような時間が訪れた。時間がゆっくりと進んでいる気がする。ひょっとしたら……。ヒカルが言った。
「あ、あたしも、そんな風になることがあるの。」
「ええっ!?」
「なんか、胸が痛くて、絶望しそうで、身体中が痛くて危険だって叫んでいるのに、どうしてもその人のことを考えちゃうの。」
「ヒカルさん……」
 するとヒカルは顔を赤らめ、顔を上げた。
「好きな人のこと考えると、考えすぎて頭痛がしてくるよね。」
 二人の間にやわらかな沈黙が流れ、相原は夢を見ているみたいだと思った。ヒカルは続けていった。
「冴馬は……あたしこのこと、何とも思っていないのにね……。」
「ハイィ!?」
(……冴馬? 冴馬ってあの、坊さん? 今頃ユージが締め上げてる例の、坊さん? その人のことが好き? じゃあ、俺は……。)
 一瞬の沈黙の後、相原は雄叫びを上げると右足に全身の力を込めて、茶室のドアを蹴破った。
「うおおおおおおおおーーーーー!」
 
 バギーン! バギバギーン……! 
 鍵のかかったドアはまさしく、吹っ飛んで廊下の向こう側に転がっていった。そこへ走ってきた人物がいた。
「ヒカルさん!」
 すると相原はヒカルの顔にみるみる精気が溢れてくるのを見た。見てしまった。頬が薔薇色に紅潮して目が涙で潤んでいくのを。相原はヒカルがずっと待っていた相手が駆けつけたのだと知った。
「冴馬……」
 冴馬はヒカルの顔を見ると安堵の表情をした。ヒカルは緊張の糸が切れて顔をくしゃくしゃにさせると、「怖かった……」と泣き始めた。冴馬は近づいてヒカルの肩にそっと触れると、目を閉じて背中をとんとんと叩いた。
「大丈夫。もう心配いりません。帰りましょう」
 相原はショックで死にそうになった。ドアを蹴破った右足が捻挫している。鍵のかかったドアなど蹴破るからそうなるのだが。相原は絶望しつつ、渾身の力を込めて言った。
「待て……その、冴馬とかいう坊さん……。アンタ、仏教とかやってんだろう? 俺は今、非常につらい……。つらくて死にそうだ。アンタ、むじょうってどういう意味なんだ? 情が無くても我慢しろって事なのか……!?」
 すると冴馬は相原に近づいて手を差し伸べた。相原はその手を払いのけた。
「『ああ、無情』の無情と仏教の言う『無常』は違います。無常は、常に変化し続けること……この世のことわりなんだ。あなたのその右足も、この二〜三日には痛みも引いて回復するでしょう。それが無常なんです。常に同じということは、この世にはないことなんですよ。」
 その答えは相原にとっては気に入らない答えだった。
(……だとしたら、この胸の苦しみも、ヒカルさんへの思いも、いつかは変わってしまうということなのか?)
「俺は、そうは思わねえ。無常なんてクソくらえだ……」
 すると冴馬は相原に静かに微笑んだ。
「続きは今度、話しましょう」
 そう言うと、冴馬はヒカルの手を引いた。それを見た相原は心が刺されたように痛かった。この痛みが、なくなるわけがないと相原は思った。
「あ、相原さん、これ、ありがとう……」
 ヒカルは振り返って相原の上着を肩から外した。学ランを見ると今日あった出来事が一つ一つ思い出された。
「ヒカルさん……それ、今度会う時まで持っててくれますか? 頼みます。」
 ヒカルは相原の学ランを持ち、どうしていいのかと迷ったが受け取ることにした。裏地に刺繍が施された学ランは、持っているだけで暖かかった。
 月が今夜はいやに大きく見える。満月だ。相原は北校の廊下から、しばらく月を眺めることにした。「あー、足痛え……」と呟きながら。
(冴馬が私を、助けに来てくれた……)
 ヒカルはそれだけで充分嬉しかった。群青色の夜の道を冴馬と一緒に歩いて帰る。一緒に歩いているだけで、温かな体温を感じる。黙って隣を歩いていると、ふと立ち止まって冴馬が言った。
「ヒカルさん、月がきれいですね。」
 と……。
 
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