ダーリンはブッダ 第10回「スイトルさん」

イラスト/ナカエカナコ             
 
ダーリンはブッダ 第10回 「スイトルさん」
 
 北校からの帰り道、私と冴馬は初めて、二人きりで心ゆくまでおしゃべりをした。
 何台もの車のヘッドライトが私達を照らしながら通りすぎ、私達は夜の道を味わいながら歩いていた。相原さんから借りた上着は暖かく、私は不思議な気分に包まれていた。
 どうして、冴馬はこんな冴馬になったのだろう。今なら、それを聞けるかもしれないと思った。
「ねえ、冴馬は昔からその、理科室のカーテンみたいな服を着ているの? ところでそれ、
やっぱりカーテンよね。」
「うん。頂き物のカーテンなんだ。制服というものは無駄にお金がかかるから、買えなかったんだよ。」
「買えないからカーテンなの?」
「いいや、それは選んでカーテンなんだ。僕も、中学の時はきちんと学生服を着ていたんだよ。」
「嘘! 冴馬が学生服なんて着たことあるの?」
「もちろん。ちゃんと受験生だったし、髪の毛とかも今よりずっと短かったから床屋さんにも行ったし。今は、伸びたところを適当に、ハサミで切っているんだけどね……。実を言うと、僕には先生がいるんだ。」
「先生?」
「うん。人生の先生。その人は、名前をスイトルさんと言って、漢字は教えてもらえなかったんだけど、スイトルのスイは、水と書くんだって言ってた。僕がスイトルさんに出会ったのは、ここに転校してくる前に、前の高校で僕が……、登校拒否から家出をしていた頃のことだね。」
「ええっ、冴馬って、登校拒否なんかしていたの!? 全然そう、見えないんだけど。」
「そうだね。やっぱり、学校って無意味に感じてしまうものだから。その当時の僕には、とても、辛いものだったんだよ。それで、僕は学校に行かずに井の頭線に乗っていた時に、痴漢にあったんだ。」
 冴馬は思い出しながら言った。私は初めて、冴馬の思い出の中に、連れて行ってもらえる気がした。
 
   スイトルさん
   
 その時、僕の頭の中は茫漠としていた。何でかわからないけども、いつの頃からか僕の毎日が茫漠としていたんだ。
 毎朝電車に乗って、電車を降り、街を歩いて学校に通う。ただそれだけの毎日だった。だけどあの、漠とした感覚は一体何なのだろうかと思った。それとも他の皆も、僕以外の井の頭線に乗っている乗客の皆も、僕には内緒で漠として暮らしているのだろうか。
 そうにも見えるし、違う気もした。形は目に見えても中身は教えてもらえない。ただ、繰り返される毎日は間違いなく現実であるということは確かで、この生ぬるい井の頭線の車中の空気も現実で、女子高生は大概4人で固まっていた。
 先頭車両で運転席越しに見える風景は、意味もなくただ、じんわりとした涙を誘った。
 人に見られないように壁際に寄り添って景色を見るのが好きだった。涙が出たけどその涙に意味はなかった。ただ、迫り来る風景と僕は本当に無関係なんだと思った。
 この世と僕とは、交わることがない。
 そういった漠とした不安だけがあった。生きがいがないとか、そういう年寄りくさいことじゃなくて。なんていうか……世界は素粒子で構成されていて、いつでもバラバラになる準備ができていたんだ。その頃はこの世界が全部嘘で、本当の世界があると思っていた。この世が何でできているのか、僕はすごく、知りたかったんだ……。
 
 いつものようにすり抜ける景色の中で電車に揺られていると、明大前で電車が止まった。
 いつも気付くのが一瞬の間、僕は遅れてしまうんだ。慌てて降りようとしたけど一気に押し寄せる人波に押され、黙ったまま電車は発車した。
 息ができなくなるほど、車内の密度は膨れ上がって、人と人が、ありえないほど触れ合っているのに、その瞬間僕たちはただの塊になる。この触れ合いに意味はない。ただ、何もない毎日の中で、関係のない人達に圧迫される満員電車の苦しさが僕は好きだった。
 東京には空がないって、そう智恵子は言ったらしいけど、僕には空がわからなかった。
 ただこの塊は次の駅で吐き出されて、皆また元の個体に戻る。ばらばらに散る。そしたら僕も流れに乗って、次の停車駅で乗り換えるんだ。漠としながら、「きっとそうなる」と僕は考えていた。その頃はもう、この世は、たいしたことを裏切らなくなっていたから……。
 授業も、2時限目には間に合うだろう。そう思ってた矢先だった。圧迫しあう人塊から、手が伸びてきた。手は僕の前までくると、何故だか握手を求めた。僕は身動きとれず、じっと手を見つめ、かろうじてその手に触れると、その手に少しの感触で握られた。突然、脳に血液が集中するのを感じてジュウと音がした。
 黙っているとその手は、今度は僕のズボンのジッパーをゆっくりと開けた。「あ、触られてしまうな」と、僕は思った。手は勝手にジッパーに滑り込んで、僕の膨らみをそっと撫ぜたけど、僕は相手が誰なのかわからなかった。
 驚いたのは、僕の頭の中の集中だった。血液が脳に集まってきて、そういえば何か叫ばなきゃいけないんじゃなかったかと思って、「痴漢です」とか、「触られてます」とか言おうとしたんだけど脳に血が集まっていて、そうしてる間にドアが開いた。相手の手が僕を押し返すように離れて、一斉に人が外に押し出されていった。 
 息が上がっていた。降りたホームで仕事に急ぐ人たちは無感情に僕を押し、僕はジッパーを開けたままベンチまで寄せられてしまった。ふらついて、ベンチに座ると、さっきの手が。大きくて血管の浮いた、手が差し出されてきたんだ。そして、「大丈夫?」って言った……。
 それが、スイトルさんと僕との出会いだった。
 黙ったまま彼を見上げていると、彼は。「やわらかそうだったから、触ってみた」 と言った。どこかに訴えることもできるのになと、僕は考えていたんだけど、あまりにもこともなげな彼の対応に驚いて、飽きれて自分のジッパーを上げた。
 ただ、空気はいつもと違って新鮮に僕に突き刺さってきた。それはどう考えてもその、挙動不審な……27歳くらいのドレッドヘアの彼が引き起こしてることに違いはなく、これから僕たちは何処へ行くんだろう? と。電車の去ったホームでしばらく、お互い黙って風にさらされていた。
 スイトルさんを初めて見た時、何故かこの人は27歳か、29歳。30歳丁度はありえないと思った。それはスイトルさんが今、何かを起こしそうな歳に見えたから。僕にとって「何かを起こす」歳は、偶数ではなく、奇数なんだ。今月も、十一月というのは、単なる偶然じゃないのかもしれない。
 この人は僕を変えようとしてるのだろうか? (だとしたら何のために?)それともただの痴漢なのか。
 スイトルさんは僕の前から去ろうとしなかった。
「あのね。」
 スイトルさんは口のきけない人が自分の気持ちを伝えたい時みたいに、もどかしそう
に言った。
「……うーんと、あの。キョムを感じるから、君の顔から。さっき凄いキョムを感じたから、大丈夫かなと思って、君を助けたくなって。それで、触ってみたらやわらかかったけど堅くなったから、大丈夫だなと思って、それだけだけど。……そんなに、虚無感持て余してんなら、もっとちんこのこととか、気にかけたほうがいいよ、絶対。…それだけ。」
「……ホモなんですか?」
「違うよ」
 こともなげに、自信たっぷりに。なのに、僕の前から去ろうとしなかった。スイトルさんは一つ息をして言った。
「君は俺んちに付いて来るだろ? 今、これから。学校行っても、何もないんだから」  僕はその時何も考えていなかった。なのにビジョンは、これからこの人の家に行くって事がわかっていた。「何もないんだから」っていう言葉が、本当にその頃の僕を言い当てていたんだ。僕は彼について、知らない場所を歩き始めた。
 
「名前、聞かないんですか?」
 と僕は聞いた。
「ん? 言いたくなったら言って」
「剛玉、冴馬……」
 そう言うとスイトルさんは「いい名前だね」と言って、インドで2600年前に悟ったというゴータマ・シッタールダのお話をしてくれた。
「俺は、スイトルっていうの」
「スイ、トル?」
「漢字は教えてあげない。ダサいから。アシンメトリーでそんな好きでない。でも、
スイは水って書くから、それくらいは、俺を支配していい」
「……?」
「人に名前を教えると、相手に支配される危険性があんだよ。知ってた?」
 そう言うと石造りの階段に向かって歩き始めた。
 さっき、僕はこの人に性器を触られたというのに、のうのうと附いて歩いていた。軽い不安と妙な安心が胸の裡にあって、この妙な安心は多分、この人は僕の見てる世界を解ってくれている人っていう、根拠のない自信だった。
 毎日学校に通うのに、僕は誰の顔も覚えられないんだ。目に映っても、「入って」こない。育ててくれた義理の両親の顔でさえも「入って」こない。そんな僕の世界に突然入ってきたスイトルさんは、極彩色の風景だった。
 僕らは黙って駅を出て、路地を歩いた。
 スイトルさんは途中でバナナを買って僕に持たせると、八百屋のおばさんが何気なく、
「スイトルさん」
と声をかけた。彼はけっこう、色んなものに支配されているんだな、と知った。
 アパートの階段を登る。不安定な鉄の階段が、ギイギイと鳴り、本当に知らない世界を象徴してるみたいで、僕の鼓動がその時やけに大きく聞こえた。ジャラジャラとした鍵束を廻してドアを開けると、スイトルさんはこう言ったんだ。
 「じゃあ、俺夜までバイトだから。好きなもん見てテキトーに、やってて。冷蔵庫に麦茶とか、食いもん入ってるから勝手に食って。コンビニは角に二軒あるし。飽きたら帰っとっていいよ。じゃあ」
 え? と僕は面食らった顔をしたみたいだけど、スイトルさんは普通に鍵を置いて出かけてしまった。ギイギイと、外の、鉄の階段を降りる音がした。そして僕は、マヌケにも呆然と部屋に取り残されてしまったんだ。
 
 部屋は、タバコを吸う人特有の、湿ったような匂いがした。それは別に嫌な匂いではなかった。台所には料理の後があった。さっきまで飯つくって食べてましたって、そんなかんじだ。
 キッチンからガラス戸を開けて部屋に入ると、タバコくさい一人暮らしの男の部屋があった。だけど僕の部屋とは、何か違っていた。それは部屋の中のひとつひとつが、さっきまでほんの30分ほどの間に知り合ってしまったスイトルさんの、分身のような佇まいでそこにいたから……。
 部屋の中央で全体を見渡すと、黙ってベッドに倒れてみた。今日の僕の運勢は、一体どうなっているのだろうと、しばらく目を閉じて寝たふりをしていた。ふとんから漂う人の匂いを嗅いで、僕はじんわり涙がでた。それは、電車の窓から見るあの涙に似ていた。
 僕は窓から見るあの景色と、やっと混ざりあったんだなあと、深く、誰かに感謝していた。
 
 気付くと腹がひどく空いていた。いつのまにか、僕はスイトルさんの部屋で眠ってしまっていたらしい。窓からの光はもうオレンジ色で、夕暮れが近いことを告げていた。
 目覚めた瞬間、一瞬何のことだかわからなかったけど、遠くから電車の音が聞こえて、ああ、今日初めて会った人に性器を触られて、そして部屋までついて来たんだなと、ぼんやり天井を見ながら思い出した。
 起きたら汗をかいていて、何故か半勃ちだった。朝勃ちと同じ原理なのかと思った。
 起き上がって時計を見ると、夕方5時を回ったところ。立ち上がってキッチンに行くと、冷蔵庫から麦茶を出して、一息に飲んだ。喉が動くのを感じて、息をついた。
 知らない人の部屋では、麦茶を取り出すのも、何かの犯罪を犯してる気がしてならない。すごくイヤラシイ行為にも感じる。キッチンテーブルの上に置いたさっきのバナナをむいて、慌てて食べた。
「……今だったら、僕は黙って家に帰れる」
 さっきの全部のことを、何もなかったことにもできる。ここにいたら何をされるかわからない。それなのに僕の五感は何か興奮して、ピクピクしていた。
 知らない部屋のせいだろうか。 
 以前に、同じ中学の女の子に好きだと言われ、受験の前に強引に家まで連れていかれたことがあった。すごく女の子らしい部屋で、何か辟易させられたけど、なぜか部屋からはタバコの匂いがした。彼女の部屋でタバコの匂いを嗅いで、僕はその子とつい、セックスをしてしまったんだ。中学生なのにちゃんと彼女はコンドームを持っていて、何か、流石だなあと感じたのを覚えている。 
 あの部屋にはそれっきり二度と行ってない。僕は相手の顔も覚えていなかった。そういうことがあったこと自体、今日まで忘れてしまっていたんだ。
 僕は麦茶をもう一杯コップに注ぐと、飲みながら向こうの部屋を覗いた。ガラクタが、たくさん飾ってあるスイトルさんの部屋は、全ての物になにか、念が込められていた。フィギュアの配置。微妙にずらした感じと、ストーリー性のある並べ方。真っ赤なクマのヌイグルミが、女の子に襲われていた。女の子は赤ずきんのモチーフだった。よく見てみたら、そこの棚には赤いものしか置いてなかった。
 その時僕の世界が、色盲から解き放たれたんだ。色は激しくスパークしていた。
 赤いものはひとまとまりに、黄色いものもひとまとまりに。それはスイトルさんの習癖なのかと思っていたけど、後から聞いてみたら、単なる風水だった。シャア用のザクは東の棚に。タウンページは、部屋の西。時折バナナも、タウンページの横に置かれた。
 
 スイトルさんが部屋に帰ってくると、僕はそれまでに勝手に他人の本を広げて読んでいる自分にあつかましさに羞恥した。できることなら消えてしまいたいと、スイトルさんの机の下に潜り込んだ。
 その潜り込んだ僕を見て、スイトルさんは
「他人が家にいるのって、いいもんだなあ」と言った。
「これ、バイト先のサモサ。」
 そう言ってスイトルさんは僕を、その後の何十日かの間、家に置いてくれた。スイトルさんには彼女がいたけど、別の彼女みたいな人やゲイの人も家にいると何人もやってきて、決まって僕に「ボク? あなたは彼の一体、何なの?」と聞いた。
 僕だって何なのかはわからなかった。だけどスイトルさんはその日から僕をついでに養ってみたんだ。
 時には僕みたいに拾ってこられた人も、拾われた猫もその部屋に同時にいた。
 スイトルさんは音楽と踊りとファッションが好きな人が集まる街で、厨房のアルバイトをしていた。夜にスイトルさんのバイト先に行くと、高校生になったばかりの僕をからかいにたくさんの女の人達が長い爪で僕を突っつきに来た。
 そこにはスイトルさんの彼女もいて、彼女はとてに短いスカートを穿いて、早く死にたそうだった。
「踊っていなきゃ死んじゃうのよ」
 とよく言っていたけど、彼女に限っては本当に踊りを止めた途端に死んでも誰も不思議に思わない雰囲気を持っていた。
 スイトルさんは、そういう滅茶苦茶にバランスを崩した人のバランスを治すように何もしないでただ、そこにいたんだ。スイトルさんといると何か、ひどくつらいと感じる物が吸い取られていくようだった。
 
 ある時、スイトルさんは自分の小さかった頃の空を思い出してこう言った。
「俺は北の方で生まれ育ったからさ、季節が俺に生きていてもいいって言ってくれるのを聞きながら育ったんだ。
 黙って散歩していると冬のある時、空からラッパの音が聞こえてくるんだ。見上げると白鳥がV字になって飛んでくる。20羽の編隊が同時に二組やってくる時は、広い空が白鳥でいっぱいに埋まるんだ。鳴き声でラッパの音を鳴らしながら、世界を変えていくように飛んでくる。
 白鳥は、すげえんだ。バサバサ飛んでて何も持ってなくて格好いい。体一つだぜ? 何も持ってないアンド体一つで、その日に食べるものはこの世が与えてくれるって信じているからあいつら身一つで飛べるんだよな。
 俺はまだ、身一つにはなれねえから。
 何もなくなったら、冴馬も北に行くといいよ。きっといい餌場があって、誰かが養ってくれると思うよ。」
 スイトルさんはいつも、てきとうなことをてきとうに言った。だけど、僕にはそれのどれもが予言めいて聞こえていた。
 スイトルさんの住むアパートには、渡り鳥のように北から南へと歌を歌いながらその日の晩飯代を稼いで暮らすミュージシャンや、踊り手や、日本中の有機農業の畑でタダで働きながら旅をするウーファーと呼ばれる人達がよく泊まりにきていた。スイトルさんは仕事先で今日泊まる場所のない人を見つけると、ついつい連れて帰っちゃうみたいだった。
 ウーファーの人達は、まるで白鳥のようだった。自分の持ち物をほとんど持っていなくて、彼らは水さえあれば生きていけるように見えた。畑を耕せば食べ物が手に入ると知っている彼らは、東京で見ても変に土着で、服に土が付いていたりした。
 僕の匂いと彼らの匂いが決定的に違うということも、鼻でわかった。その頃の僕はスイトルさんの使っているトニックシャンプーの匂いがしていたし、ひ弱で太陽にあまり当たっていなかったから、太陽の匂いがどんな匂いだったか随分長い間忘れていた……。
 それだから僕は、スイトルさんがいなくなってからは、そのウーファーさん達について北へ回った。そう。スイトルさんは途中で、いなくなってしまったんだ……。
 
 僕は、そんな風にして生きている人がいることを初めて知った。あまりにも普通の価値観しか持てないくらい、自分は他の可能性を挽きつぶすように生きて来たんだと思う。
 その頃の僕は、もうスイトルさんなしには生活できないほど彼を崇拝していたし。だけどスイトルさんは、僕のそういう態度をすごく軽蔑したんだ。
「おまえはすごくいい物を持っている。なのに、それを見ようともしない。ちゃんと、気付け。どれだけ素晴らしいものを持っているか、ちゃんと気付け」
 って、そればかり言ってた……。
 僕は、気付こうにも自分が何を持っているのか全然わかりゃしなかった。僕は、邪魔な自我を持て余していつも苦しんでいたし、スイトルさんはいつも拾ってきた人のことや猫のことばかり考えていて、自分自身をどうにかしようっていうのが全然無い人だった。
 
 どうして僕は、何かをどうにかしようとしてしまうんだろう……。ただ、そのままに、ありのままに、何も考えず自分が吸い取り紙のように世界から水を吸って、訪れた人の感情を吸って、その世界の色に染まりながら生きてしまえばいいのに、自分というものが介在すると、全ては恣意的になってしまうんだ。
 そんな邪魔な自分のせいで、すべての物事を自分の思い通りに通そうとして、通らない自分の境遇を恨んだり、中途半端な義理の両親を恨んだりした。
 その恨みの炎で自分の身が焼かれて、苦しんでいるのはいつもしょぼくれてみすぼらしくなった自分だった。
 スイトルさんのベッドの前で、体育座りをして、どうにもならなさに伏せっていると、スイトルさんの彼女がベッドの上から声をかけてくれた。
「冴馬はね、もっとバカになればいいのよ。踊りもしないで考えてばかりいたら、そりゃあ頭もおかしくもなるってものよ。私は自分で死にたくなるのを自覚している自殺志願者だから、ちゃんと死なないように予防策を立ててあるのよ?
 見て、赤いマニキュア。きれいでしょ? きれいに塗れたら、ヒールを履いて踊りに行くの。バカみたいに見えるけど、髪はいつも盛っていたいの。可能な限りに逆毛を立てて、可愛いアイテムを全部盛り込んでいたい。
 そうしていると、死のうとする時間より、少しだけオシャレに使う時間の方が長くなるから、死なずに済むのよ。
 冴馬はさあ、本当に普通の服が似合わないね。彼のお下がりも本当に似合んない。ほら、いっそのことこれでも巻けば? カーテン。服よりずっと、似合うと思うよ。」
 僕は頭からカーテンを被って、中東のお姫様のようになって彼女と笑った。 
 スイトルさんの彼女は生きづらいものをたくさん抱えていたからスイトルさんは可能な限り、彼女の生きづらさを吸い取っていた。
 彼らはベッドで抱き合ったまま眠り、眠る前には何度もキスをした。
 明け方になる頃には彼女の体は透明に見えるほど透き通っているのに、スイトルさんが仕事に行くと、途端に彼女は曇りガラスのように濁り始める。きっと、スイトルさんなしには生きていけないと、自分に呪いをかけていたんだ。
「僕では何か、役には立たないの?」
 スイトルさんの留守に彼女に聞くと、彼女は笑って言った。
「冴馬が? 冴馬がこんな醜い私のことを救ってくれるの?」
 そう言って「おかしい」と言って笑っていたんだけど、途中で疲れて、僕に抱きついて言った。
「冴馬じゃ、ダメなの。冴馬は、すごく暖かいよ。大好きよ。だけど、ダメなの。抱きしめられた瞬間に、何もかも消えてくれるのは、本当に好きな人にしかできないことなの。
 冴馬も、そういう女の人を探してね。私は、ダメな女だから……。」
 それを聞いているうちに、彼女は死んでしまうんだろうな……って思った。どうしてもスイトルさんの彼女からは、初めて会った時から死の予感しか受け取れなかった。そして多分、スイトルさんも自分では吸い取りきれないことを知っていた。
 彼女は実家に帰って、睡眠薬をたくさん飲んで自殺した。
 多分、早めに次の世界に行きたかったんだと思う。自分の生きるこれからの何十年という時間を前に、足がすくんでしまったんだ。
 僕たちは、彼女がいずれ自殺するだろうと知ってて、それを止めることができなかった。
 
 彼女のお葬式に、僕たちは出られなかった。家の人達にひどく毛嫌いされて、「娘が死んだのはアンタ達のせいだ」と塩をかけられた。
一番、彼女を愛していたのはスイトルさんだったのに……。
 だけどスイトルさんはその葬式の様子を、路地に立ってずっと見ていた。
「よく見なさい。よくよく、見てみなさい。」と、神さまに言われているみたいに。
 「人は、自分の見えるところまでしか、見ようとしないんだよな。もっと言えば、自分に都合のいいところしか見ようとしないし、見れないのが人であって、それが人の限界なんだ。だけどシッタールダはもっとよく見ろって言ったんだ。俺たちが何に囚われているかを……。
 人は、ものすごく単純にできていて、俺たちは「喜び」によって心が支配されてしまうのだと。悲しみじゃなくて喜びの方に、心が支配されてしまうんだと。その歓喜に振り回されない術をもつって、難しいな。苦しい気持ちが生まれるのは、必ず喜びの後なんだ。
 彼女は必ず死ぬ人だってわかっていたけど、こんなに早く死ぬなんて思わなかった。だけど、俺は、物事はただ起こるって思っているんだ。そこに理由なんてあった試しがない。
 物事はただ起こって、それを俺たちはただ受け止めるんだ。あの両親泣いてただろう?
 多分、しばらく俺のことを恨んで大好きだった彼女のことばかり考えて暮らすだろう。
 人って自分を幸せにするのがすごくヘタだからな。そのどうにもならない死から離れるには、諦めるっていうのが、大事なんだと俺は思うよ。
 諦めないと流れないんだよ。お前がうちに来て晩飯にサモサを食べるようになったのも、前の生活を全部諦めてくれたからだし、当たり前みたいに昼の間彼女と一緒にいてくれたこと、感謝してるよ。」
 スイトルさんは言った。
 その時僕は、ひどく自分が受け入れてもらっていると感じた。ずっと以前から僕の真っ黒な部分を吸い取ってくれていた彼は、僕を、どうにかすることを諦めてくれていたんじゃないかってふと、思ったんだ。
 目の前にいる僕をスイトルさんは自分の望み通りにしようとは決してしなかった。
 だから、僕はすごく、楽だったんだ。
 僕には僕であるどうしようもない理由があったし、その理由をスイトルさんはとても、大事にしてくれた。スイトルさんは僕をスイトルさんの望むように変えようとはしなかったんだ。
 その人がその人である理由を大事にするっていうのが、彼が僕を受け入れるっていうことなんだと思った。
 どうして僕は、あんなにも自分の両親を自分の思い取りにしようとしていたんだろう。
その人を変えようなんて本当は、恐ろしいことなのに。「変えられてたまるか」って、自分のことなら思えるのに、自分に近くなれば近くなるほど、その基本を忘れて相手をコントロールしようとしてしまうんだ。あまりにも、自分に近い存在だから、自分と同一視してしまうんだね。本当は別の人間なのに……。
 僕は僕のことを育ててくれた義理の両親のことも、生みの両親のことも自分と分けて考えられなかったんだ。
 いつも、どこか親のせいだという思いがあった。ひょっとして、自分と親を分けて考えられれば、自分も相手も、生きやすかったのかな……って思った。
 分けて、離れて、あの人達の成り立ちを考えて……自分の成り立ちを考えて。それから付き合えば良かったのにね。だけど心の狭い僕がそれをやるには、宇宙よりも遠く離れなければいけなかったんだ。
 スイトルさんの彼女は、とても優しかった。僕と同じ量かそれ以上の虚無感を持っていて、それを減らそうっていう気持ちが全然無い人だった。
 ただその重さを感じて、ぼかしていれば良かったんだけど、きっとそれから続く長い時間というものを考えてしまったんだろうね。本当は明日にでも、自分は死んでしまうと考えていたけど、ふと永遠に生きるかもと考えて恐ろしくなったんだ。
 彼女が死んで、僕たちはこの生活が終わったのだと気が付いていた。そして、ある朝スイトルさんは、部屋からいなくなってしまったんだ。
 
 しばらくの間、僕は半狂乱でスイトルさんの名前を呼んで知ってる場所を探し回った。
だけど、スイトルさんはいなくて、アパートの部屋はそのままにあって。そのどれもがスイトルさんの匂いに包まれていた。
 僕はいつまでもそこで待っていたかった。だけど、スイトルさんが決して帰ってこないことも知っていた。それで、僕はその部屋から以前にスイトルさんの彼女が似合うと言ってくれたカーテンを一枚だけ頂いて、北から来たウーファーさんと一緒に旅に出たんだ。
 
 彼らはほとんどの距離を、歩いて移動した。お金がかかるから、特急の電車になんか乗らないで、普通電車で乗り継いで北国まで移動した。着いた先からは歩いて農場まで出かけていった。
 僕の服はすぐにぼろぼろになった。彼らは自分の頭と身体を石けんなんかで洗わなかった。動物みたいに、水で洗うんだ。そうすると本当に、人は太陽の匂いになっていく。
 僕は、スイトルさんが今、インドにいるような気がする。インドか……東南アジア。仏教の盛んなところで魚でも売って、それとなくうまくやっている気がするんだ。
 あまりにも似合いすぎるからやらないって以前は言っていたけど、その似合いすぎることをやる時が来たから、もう日本にはいないんだと思う。
 しばらくの間、僕は山で農業の手伝いをして働いていた。そこから見る夕陽はとてもきれいで、スイトルさんに見せたいと思った。そうしたら、突然にその夕陽をスイトルさんも見ていると気付いたんだ。
 ああ、この夕陽を、今、スイトルさんも見てる。
そう思った時に、僕は、自分の勝手な心で、人を決めつけて生きてきたことをすごく後悔した。
 こんなに美しい夕陽を、みんなが見ているとは思わなかったんだ。きっと、スイトルさんは、僕が見たこともないような美しい夕焼けを見て、僕に見せたいと思っている。それを感じて、僕は山を降りたんだ……。
 
 山から降りて、僕は初めて本当の母親に会いに行った。その時はもう、僕はスイトルさんの部屋にあったカーテンを着ていたんだけど、僕のお母さんはずっと僕を見て泣いていた。それが、嬉しくて泣いているんだってことがよくわかった。僕が生きていることをこんなに喜んでただただ、泣いてる人がいる。
 お母さんを見た時、やっと僕は、世界に許されたと思ったんだ……。
 
 冴馬と私は自分の大切なことを、ぽつりぽつりと話しながら夜の道を歩いて帰った。
 私は、冴馬が普通の人みたいに小さなことにいちいち傷ついてきたことに感動を覚えた。冴馬も私と同じ世界を生きているんだと思えたから。「君一人じゃない」と、冴馬の物語は私に語りかけていた。
 あまりにも大変な人生だったけど、冴馬は彼の先生に出会って、なるべくして冴馬になったんだと感じた。そして、あんまり普通に喋るから「ふうん」と思って聞き流していたけど、冴馬ってもう経験者なんだなと感じてドキドキした。
 群青色の夜の闇を冴馬と一緒に歩いて帰る。走る車の音すら切なく響く。今、冴馬の見ている景色を、私も見ている。月が私たちを照らしている。そのことは私が一生分生きていけるくらい、すごいことだったのだ。
 
第9回「北高へ」
第11回「冬の訪れ」
 
ダーリンはブッダ 目次