ダーリンはブッダ 第6回「ヒカルの道場」

イラスト/ナカエカナコ   
 
ダーリンはブッダ 第6回「ヒカルの道場」
                
 道場には、道着に着替えて中に入る。入る時は壁に掛けられた「平常心」という墨字に一礼してから入らなければならないとお父さんに言われて、私は子供の頃からずっとそれを守ってきた。バカバカしいけど毎朝、この道場で空手の型をやってから学校に行く。お父さんは本気で世界一強い男に憧れているんだけど、ここは北校の連中も道場破りに来ないくらい弱っちくて平和な道場で、お父さんは私よりも弱い。だって、ここの道場は元々、空手の道場なんかじゃなかったから……。
 
 悲しいことに、私のお父さんは空手道場を始める前、飲食店の経営をしていた。そこでウェイトレスに来ていたお母さんと出会って結婚までしたのだけど、当時始めたばかりの焼き肉店は、突然の狂牛病騒ぎで一気に来店者数がゼロになり、そこで何の手立ても打たなかったお父さんは店がつぶれるまでそこにいて、店の賃貸料は雪だるま式に借金になっていった。そこで、お父さんとお母さんは荷物をまとめて、母の実家である道場に……宗教法人「光の道」に帰ってきたのである。
 
 帰ってからしばらくの間、家賃や税金のかからない宗教のある実家暮らしはいいものだったみたいだけど、お母さんは私を出産した後、借金の返済で外に働きに出て、お父さんはいわゆる、主夫になった。宗教法人の開祖である祖母は喜んで私にその宗教を継がせようとして、「ヒカル」という名前をつけたんだって。
 だから、この名前は私にとってすごく荷が重い。いつかはここの道場を継がなきゃいけないのかと思ってしまう。しかも、信者さんが高齢で8人くらいしかいない宗教法人なんだけど、その信者さん達がやたら熱心で、ここがつぶれてはいけないような雰囲気を醸し出しているし、そもそもおばあちゃんが生きている間は宗教を止められないみたいなのだ。
 
 無駄に大きくて立派な丸い鏡が飾られてあって、榊の枝が活けられ、うちは朝の6時におばあちゃんが太鼓を鳴らすので、どうしても宗教やってますっていう感じが強く出る。だけど、宗教法人とお母さんの稼ぎだけでは食べていけないと思ったお父さんは、私が3歳の時に宗教法人の看板の隣に、空手道場の看板も出してしまったのである。
 
 学生時代にたまたま空手をやっていたぐらいのお父さんでも、この辺に空手道場がないおかげで常に小学生の男の子達が習いに来て、道場に小銭を落としてくれた。しかも宗教法人の方にもお客さんが来て、空手をやってる横で信者のおばあちゃんが
「うちの孫が40歳を過ぎても結婚しない」
 とかいうどうでもいい悩み話を切実に訴え続けて、2時間近くもどうしたものかと騒ぎ続け、最後には道場にある「平常心」という言葉に手を合わせて帰って行くのである。お布施の代わりにバナナを一房置いて……。もう、意味がわからない。小さい頃はそういうことにも気に止めず、私の家は代々続く空手家なのだと信じていた。お父さんが教えてくれる空手の型をただひたすら真似て、私はそれが全てだと思って育った。
 
 だけど、先日母から全ての真相を聞かされた私は、あまりにもダメな父の生き様に腰がくだけてしまった。お父さんは一体、何がしたいの? 
 私の生い立ちは、なんだか本当にバカバカしいのである。
 
「ヒカルぅううう! なんで昨日は、遅くなったんだぁああああ!」
翌朝。暑苦しく父が言った。自分の父親がロングヘアーだなんて、やり切れない。しかも朝から晩まで紺色の空手道着を着ているのだ。
「だから部活を始めたのよ! 部活動! 前にも言ったじゃないの!」
「なんでうちの空手道場で空手をやらないんだ! 子供達もみんなヒカルお姉ちゃんが来るのを待ってるんだぞ!」
「だって私、空手が好きだなんて思ったことないもの! むしろ嫌いだもの!」
「そんな、嫌いだなんて言うな! もういい、それで何部に入ったんだ?」
「……今は、言えない。」
「は? 言えない? なんで、どうして? チア・リーディングにでも入ったのか!?」
「言ったらバカにされるに決まってるもの。もう、お父さんは私のこと構わないで!」
 チア・リーディング……。もし私が入ったのがそんな部活だったら、いちいち悩まないで済んだのかもしれない……。仏教部に入って恋に悩むだなんて、本末転倒ではないだろうか? しかも、恋愛始めちゃった人までいるし。そういえばうちの部活、仏教部だけど恋愛禁止とかじゃないんだ……別に尼になるわけでもないんだし、冴馬のこと、好きになってもいいのかしら?
 
「ヒカルのバカ! 俺の子だけどおまえなんかもう、俺の子じゃない! 晩飯にハンバーグ作ってやらないから、覚えてろ!」
 どこまでも子供であり続ける父親を無視して、自転車に乗った。遠くから「ヒカル〜!」という雄叫びが聞こえた。無視無視。私は意識を冴馬のことに集中した。
「冴馬……」
 
 声に出して言ったら、途端に切なくなってきた。冴馬のことは、見ているだけで嬉しいけど、近くにいたら切ない。どうしても、冴馬の匂いを嗅ぎたくなってしまうし、少しでもいいから、間違いでもいいから、触れてみたいと思ってしまう。
「胸が痛いなあ……」
 空気に秋の匂いが交じっている。秋の空は、薄い雲が青い空に映えて、どこまでもきれいだ。寂しく、身体の中に風が通っていく感じ。このまま、この気持ちが死んでしまうまで、じっとしていられたらいいんだけど……。
 
 その日、冴馬は学校に来なかった。