ダーリンはブッダ 第2回「仏教部」

イラスト/ナカエカナコ
 
ダーリンはブッダ 第2回「仏教部」
 
 私はその日、初めて冴馬のいる仏教部の部室を開けた。元が廃部になった写真部の部室だけあって、暗幕があちこちに張ってあり、暗い。しかも広さが8畳ぐらいしかないのに真ん中には理科室の大きなテーブルが置かれていた。
「それじゃ、部活始めようか。」
 そう言うと冴馬は黙って隅っこの方に行き、自然にあぐらをかいて座ると目を閉じて、瞑想に入ってしまった。
「ちょちょ、ちょっと! これが部活? これ、部活動なの?」
 冴馬は黙ったまま目を閉じて動かない。
「これって……か、活動して……ないんじゃない?」
 すると赤鬼のタカハシがドアを力いっぱい開けて入ってきて言った。
「女はギャーギャーうるさいのう」
「タ、タカハシ君。そういえばあなたも、仏教部なんだっけ……」
 タカハシは私を無視して言った。
「冴馬、うちの部活ってよ、瞑想の大会とかねえんだろ? 誰と争ってテッペン取ればいいんだよ? 寺とか襲ってテッペン取ればいいのかよ?」
 なんて物騒な発言を……。すると冴馬が瞑想状態からふっと笑みをこぼして言った。笑顔がまぶしすぎる。冴馬の笑顔には一切の邪気がない。
「争うのは、自分自身かな?」
 私は驚愕のまなざしで冴馬を見た。
(争うのはじぶんじしん……?)
 
「いや、訳わっかんね−! もっと俺にもわかるようにもの言えや! バーカ!」
 私は心の中でつぶやいた。お願い、私にもわかるような言葉で言って……。
「うーん、ええとね。人が、なんで苦しむかっていうと、自分があるからなんだよね。何故だか物心ついた頃から自分という存在があるように思っているでしょう? みんな。だから、自分が関わる全てのことに傷ついたり振り回されたりするんだよ。瞑想は、その自分というものを無くしていく行為なんだ。自分を無くしてしまわないと、この世界があらゆるエネルギーに満ちていていることに気づけない。悪いエネルギーを作り出すことすらしてしまう。自分がバイアスになるからね。瞑想はそのバイアスをなくして、世界をただあるがままに受け取る行為なんだ。どう? やってみない?」
(やっぱり訳がわからないわ……)
 不安に思っている私に気づいてか、冴馬は黙って立ち上がるとそばに寄って、私の肩に手を置いた。
「ええっ、ちょ、ちょっと!」
 冴馬の狂おしいような匂いが我慢できないぐらいに近づいて、私は息できなくなった。
「……ここに、足を楽にして座って、へその下三寸にある丹田に意識を集中させるんだ。そして、口から細く、糸を吐くように息を吐いて、鼻から吸う。口から細く息を吐いて、鼻から吸う。これを繰り返していれば、誰でも瞑想状態に入れるよ。」
 冴馬に肩を押されて座らされ、あぐらをかく格好になった私は、今……今世紀最大のひどい見た目になっていた。女子高生があぐらをかいて、大仏みたいに座るだなんて! 黙っていても顔が悲しみで般若のように歪んでしまう……。
「おい、おまえ大丈夫か? けっこうひどいぞ、顔。」
「う……うるさい。わかってるわよ、そんなの!」
「ところでよう、このままだとこの部、なくなるんだろう? 月末までに人入ってこないとよう」
 タカハシがポテトチップスの袋を開けてザーッと口の中に放り込み、モシャモシャとかみ砕きながら言った。狭い部室にポテトチップスの油の匂いが充満する。
「そうだね。」
「ええっ、なくなるの?」
「今月末までに5人の部員がそろわなかった場合、この部室は、おてもと研究会に明け渡すことになってる」
「おてもと研究会!?」
「何でも、箸袋を集める研究会だそうだよ」
「おいおい、そんな部活に取って替わられるのかよ?」
「今、おてもと研究会は4人集まっているらしい。今月末までにその人数を超えないとうちは部室を失うわけだけど、大丈夫だよ。雨の日は校庭の銀杏の木の下で瞑想すればいいだけの話だから。」
(そんなの、絶対にイヤ……!)
 
 それから冴馬は仏教部の看板の横に「新入部員募集」の張り紙を出したのだが、なんだかその張り紙が加わったせいでより一層仏教部の怪しさが増し、とほほな気分になった。
「ちょっとヒカルー! あんた仏教部に入ったって噂だけど、本当なの?」
 夏樹が来て言った。
「いや、入ってない……」 
 とっさに嘘をついてしまう。
「あそこの部室にあんたそっくりな人が入っていくのを見たって子がいるんだけどさ、絶対やめといた方がいいよ! 人生台無しになるよ!」
(そこまで、言う!?)
 
 冴馬は教室の一番後ろの席で、瞑想している……。誰も冴馬の匂いを嗅いで狂いたくないのか、基本的に休み時間になると半径5メートル以内に人は近づかない。授業が始まるとやむなく周りに座るが、周りにいる全員が泣きながら身もだえているのは、やっぱり冴馬の匂いが特別なせいなんだろう。
 授業中も瞑想し続けている冴馬に近づいて注意しようとした英語の堀江先生は、ハイヒールでツカツカと近づくと2メートル圏内に入った途端、急に泣き出して1メートル圏内に入って今度は逆方向に走り出し、叫びながら自宅に帰ってしまった。しかもそのまま教師を辞めてしまったので、先生方とはいえ鼻をつままずに冴馬に近づく人間はいなくなった。冴馬の匂いを嗅ぐと、切ないのと懐かしいのが入り交じって入ってくる。そして、忘れていた過去の小さな思い出を、急に思い出すのだ。
 
 休み時間があと2分で終わるという頃、冴馬はカッと目を見開いて立ち上がった。そして、クラスで休み時間はいつも突っ伏して寝たふりをしている、拒食症の細江咲子……通称・ガリ子の前まで進んで行き目の前で微笑むと、こう言った。
「細江さん……仏教部に入りませんか?」
 と。私は目を皿にして驚いた。
(部員って、誰でもいいの? 私に声をかけてくれたのは、私が特別だったんじゃなかったの? よりによって、なんでガリ子なの?)
 言われた瞬間にガリ子は貧血で倒れて保健委員に連れていかれた。クラスが騒然となっている。ガリ子はよく倒れるけど、あんなガリガリじゃ鉄分だってなんだって不足しているんだろう。
 ガリ子は昼休みにはお弁当を広げているけど、食べてる姿は見たことがない。ただ広げているだけ。足はかわいそうなほど細い。飢餓に苦しんでる国の子供の細さレベルだ。体重が30キロしかないって噂だけど、本当のことかもしれない。骨しかない足をまるで自慢するかのように、短くした制服の裾から見せている。そんなガリ子の存在をいつしか私たちは無視することで心の平安を保ってきた。ガリ子を見るのはつらいのだ。
 それにガリ子には愛想がない。髪は茶髪のストレートでギャル風に見えるのに、いつも突っ伏して一日が終わるのを待っている。ヤバイ……あたし、嫉妬している。さっきからずっと、胸が痛い。ガリ子なんていなくなれって思ってる。あたし、昨日までこんなんじゃなかったのに……。
 
 放課後、保健室に行くとガリ子はまだベッドで寝ていた。
「あのさあ、私、真光っていうの。細江さん、同じクラスだけど話すの初めてだよね。」
「真さん……なら、私知ってる。あなた、クラスの中じゃ意地悪な目で私を見ないから。」
「そうかな……けっこう私、意地が悪いみたいだよ?」
「ううん。あなたの視線は、困っているの。なんか、私をどうにかしようとして、どうにもならないのを知っている目。私、どうにもならないの。実は私……拒食症なの」
(そんなの見ればわかるって……)
「なんか、カロリーのあるものを見ると吐き気がするの……キュウリとリンゴ以外は食べられないの。カロリーのあるものは野菜ジュースか、豆乳ぐらいしか飲めないの。カルシウムが足りなくてすぐ骨折するし、生理はずっと止まってるからこのままじゃダメだってわかってるんだけど……。なんか、本当に栄養があるものがこわいのよ。」
「こわいって、何で?」
「ふとるから。」
 
 それは、太った方がいいんじゃないかなあと私は思った。だって、今言った症状って、やせているから起こってる症状なわけで。栄養があるものを食べれば問題なくなるじゃない? あるのに食べないっていうのは、ただの、わがままなんじゃないかなあ……。
 そう思ってたところに冴馬が突然、現れた。
「真さんも、来てくれてたんだ。」
「さ……冴馬!」
「真さんもガリ子さんのこと、気になっていたんでしょう? 僕も転入してから、一番気になる人だと思っていたんだ。でも、何故気になるのかはわからなかった。だけど、部活に危機が訪れてわかったんだ。気になるってことは、友達になりたいからなんだって……」
 
(ち、違うよ、こんなに痩せている人は珍しいし、世の中にはそういないからよ!)
ガリ子は驚いて上体を起こし、よろめいた。
「剛玉君、よね……私、私なんかが部活って、できるのかしら? 走るとけっこうな確率で骨折しちゃうから、体育はいつもお休みさせてもらってるし、通学はママのお迎えがないとやっていけないし、カロリーの高い食べ物見ると、吐いちゃうかもしれないのよ」
「大丈夫。座禅するだけの簡単な部活だから」
「って、冴馬! キャッチセールスみたいに誘うもんじゃないわよ! それにガリ子はあだ名であって、本名じゃないのよ! 本人の前で呼んじゃダメ!」
「あ、そうなんだ。」
「………。」
「………そ、そういえば、細江さんって冴馬の匂い……大丈夫なの? みんな、マスクなしで冴馬の匂いを嗅ぐと倒れちゃうんだけど」
「あ、それなら私、もう匂いとか感じなくなってきているから大丈夫。やっぱり体力ないから感染症にかかりやすくって、いつも鼻が詰まってるの」
「そういえばタカハシ君も蓄膿症だって言ってたよ。仲間だね。」
冴馬が言った。
(鼻が悪ければ問題ないんだ……)
 
 私は、自分の鼻の良さを少し呪った。自分だけ、こんなに冴馬が好きだなんて……損をしている気分になる……冴馬は私のことなんか、ほんの少しも思ってないのに……。
「ガリ子さん、君は仏教の素質があると思うよ。インドでは苦しい修行に耐えて断食をして、生きたまま結跏趺坐して死んでいった高僧もいるし、シッタールダだって最初は苦行をしたんだ。シッタールダはその後にゆき過ぎた修行を禁じたけど、苦行が無駄だと知る上では、やる価値はあったと思うんだ。断食ができれば食糧難になっても生き抜くことができるし」
「あ、ありがとう……。だけど私、点滴がないと死んじゃうかも。点滴されると太るからイヤなんだけど、お医者さんが点滴打たなきゃ死ぬっていうの。ほら……」
 ブラウスの袖をめくったガリ子の腕には、痛々しい点滴の後が赤紫色になって浮かんでいた。たくさん、点滴の跡がある。どうして、こんなにまでしてガリ子は食べないんだろう? それに、その痛々しい腕を見せるガリ子が、なんだか得意げに見えてしまう。私の半分の細さしかない可哀相な腕……。すると、冴馬が言った。
「ガリ子さんの体重って、何キロぐらい?」
「……28キロ」
(28キロ……!? そんなで、生きていられるの……?)
「君はね、本当はもう死んでいてもおかしくないぐらい痩せているんだ。だけど、生きている。どうしてだかわかる?」
 
 ガリ子は驚いて、目を丸くして言った。
「そんなの……わからないわ。」
「……それはね、君の生命エネルギーが、半端なくあるからだよ。もう死んでいてもおかしくない肉体を動かすだけの生命力があるんだ。クラスの中では誰よりも生きる力に満ちて、君の細胞は必死に死との闘いに明け暮れている。君が食べなくても君の身体は生きようとしている。緑色の鼻水は、闘って死んだ白血球の死骸だよ。」
「私……闘っているのね。」
「そう、闘っているんだ。」 
 ガリ子は、何故だか目に涙を浮かべて言った。
「……私、死んでいく自分が好きなの。細くて、美しいから。だけど、死にたくないの。生きていたいの。脂肪がないから、夏でも指先が寒くてシモヤケになっちゃうんだけど、その震える自分の指が好きなの。だから、それをずっと見ていたい……。」
 ぽたっと、ガリ子の目から涙がこぼれた。
 
(ああ、この子は、死にたいんじゃなくて、生きたいんだなあ……って思った。
 
 私は、クラスの中じゃ浮かないようにいつでも昨日のテレビの話題を声高に話しているけれど、こういう話を友達としたことって、なかった気がする。
 浮くのが恐かったから。
 夏樹もずっと一緒にいたけど、一番好きなものについてとか、死にたいと思ったことや生きたいと思ったことなんて、話さなかった。話して嫌われるのが恐かった。私が、思ったことの全部を話せなくて寂しかったことを、夏樹は知っていただろうか。
 
 帰り道、ガリ子が迎えの車にヨタヨタと歩いてゆくのを、私は冴馬と一緒に見送った。にこやかに手を振る冴馬の手には、ガリ子の書いた入部届が握られている。……あの状況で、入部届を出して書かせるなんて、本当は冴馬って恐ろしい人なんじゃないかって思う。
 
 ただ、今日はガリ子のあのヨタヨタ歩きが、すごく一生懸命なものに見える。どうしてだろう……ほんの少しの時間しか、話さなかったのに。
(なんだか、鳥の雛みたい……)
 
 すると冴馬が、にこりと笑って言った。
「真さん、部室に戻って瞑想しようか?」
「め、瞑想するの? そういえば、ガリ子もう帰っちゃったけど、いいの?」
「彼女は体力的に、タイムアウトだったから。これ以上は起きてるのしんどいよ、きっと。」
 女性バスケ部の練習する声が遠くから響いている。野球部の白球をバットで打つ音。私たちは、まるでずっと昔から友達だったみたいに一緒に歩いて部室に向かった。廊下を歩く音がすとんすとんと私の中に入っていった。
 
(いつか、冴馬と、ガリ子と、タカハシと一緒に……学校裏の店の鯛焼きを食べたいな……。ガリ子にはまだ無理かもしれないけど、あそこの鯛焼きは薄皮がカリカリしていて、あんがいつでも最高なんだ。ガリ子もあんこ一粒なら、食べてくれるかもしれない。)
 そんなことを考えながら私は、冴馬の後ろ姿に揺れる黒髪をを見つめ、歩き続けた。
 
つづく