イラスト/ナカエカナコ
ダーリンはブッダ第5回「デブ子のマンション」
ガリ子がインターホンを押した。
「裕子ちゃん、私。咲子よ。ずっと来られなくてごめんね。あたし、つい最近まで股関節脱臼で動けなかったの……。裕子ちゃん、ドア開けてくれる?」
ドアはしばらくの間沈黙していたかと思うと、ふいにカチャンと音を立てた。ガリ子がそっとドアノブに手をかけた。そして沈痛な面持ちでこう言った。
「ごご、ごめんなさい。私、これ以上力が出せない……」
どうやらドアノブを回す力がないらしい。
「細江さんって、面白いほど非力なのね……」
マンションのドアを開けると、なんだか饐えた匂いがした。なんだろう……食べ物の腐っているような匂い。これは、私にとってはとても苦手な匂いだ。匂いは細かな情報を伝えてくる。ヤバイ匂いがする時に、iPhoneで検索してもしようがない。デブ子のマンションは、私の鼻に「今すぐ逃げろ」と警告していた。電気もつけない暗くなった部屋でカサカサと音がして、ガリ子が「裕子ちゃん、電気付けるよ?」と言うと、その部屋は蛍光灯の青白い光に照らされ、パッと明るくなった。
台所の隅にうずくまってスナック菓子を食べ続けているデブ子の身体は、想像以上にでかかった。普通の女の子の、6倍から7倍はある。指も太く、ただひたすら食べ物を口に運んでいる。その姿を見た時に、私にはデブ子が、とても脅えているように感じた。
いけない。私ってば初対面の相手をデブ子って……どうしてあだ名をつけて呼んでしまうんだろう。大山さんって呼べばいいのに。
「ごめんなさい、急に来て。裕子ちゃんにずっと会ってなかったけど、いつも心配してたよ。過食、進んじゃったね。」
ガリ子はデブ子の手を取ると、とても自然にそう言った。瞬間に、デブ子の心に火が灯るのが見えた。それまで実体の無かった体に、急に魂が入ったかのようにデブ子が実体化した。
「咲子ちゃん……? や、やだ、私ったらお客さんが来ているのに、お茶も出さないで……今、コーヒー入れます…ね。咲子ちゃん、美味しいケーキがあるから、食べていってね」
そう言って冷蔵庫の扉を開けると、恐ろしいほどの数のロールケーキが段になって重なっていた。この冷蔵庫、ケーキしか入っていない……それが私にとっては衝撃的だった。
「おまえんち、洋菓子屋なんか?」
タカハシが言った。
「……キャーッ!」
デブ子は叫んで、ガリ子の影に隠れた。しかし、隠れようにも拒食症のガリ子の影には、隠れようがないのだけれど。
「咲子ちゃん、この人誰?」
するとガリ子はデブ子をなだめるように言った。
「ごめんね、びっくりさせて。彼は、高橋君っていうの。大丈夫、ヤンキーに見えるけどそんなに恐くはないの。彼、私の恋人なの……」
(何ーーーー!?)
と、誰もが心の中で叫んだ。
「ちょっと待て、何で俺がお前の恋人なんじゃい!」
タカハシは赤鬼のように真っ赤になって言った。
「だって、さっき私のこと抱いたじゃないの! あれは嘘だったの?」
(抱いた?)
(抱いた……!?)
「担いだだけだろっ!」
「違うわ! 抱いてくれたじゃない。あれは、正式なプロポーズだと私は受け取ったわ。
私、まさかこんなに目力のある人と結婚するとは思わなかったけど、努めて明るい家庭を築けるようにがんばるから。高橋君、私、こんな体だから色々難しいこともあるかもしれないけど、今度うちに遊びに来てね。両親に紹介するからっ!」
タカハシの泣く子も黙るような恐怖の吊り目を、まさか「目力がある」と表現するとは思わなかったが、ガリ子はどうやら本気らしい。後ろから冴馬の「「プッ……」という笑い声が聞こえた。
「高橋君、良かったね。彼女が欲しいって言ってたものね。」
「かっ……」
プルプルと震え、どもってからタカハシは叫んだ。
「勝手にせんかい!」
私は心の中で「エエーッ!?」と叫んだのだが、ガリ子は幸福な花嫁のようにタカハシの太い腕に細すぎる腕を巻き付けた。世の中は……こんなことでカップルが誕生したりするのか……こんな、饐えた匂いのする過食症のデブ子の家で……。私はあまりの急速さとシチュエーションの選ばなさに呆然としてしまった。
「咲子ちゃん、すごいね。彼氏ができるなんて……私なんか、食べるばっかりで何もできないもの。」
そう言いながらデブ子は冷蔵庫のロールケーキを開けると、無意識に丸ごと食べ始めた。
(切らないでそのままいくんだ……)
私はもう、デブ子が繰り広げてくれる過食ショーを、もはや感心しながら見ていた。
「大山さん、ケーキじゃおなかはいっぱいになっても、心はいっぱいにならないよ。」
「えっ……やだ、私ったらいつの間にロールケーキを……? いけない、お客様にまだコーヒーお出ししていない!」
冴馬はにっこり笑って言った。
「とても簡単な話なんだ。人の身体は、食べ物でできているよね。だから今、大山さんの主成分はそのロールケーキなんだ。ふわふわとして心が頼りなくなってしまうのは、ロールケーキのためだよ。」
するとガリ子が言った。
「違うわ、剛玉君。あなた、ロールケーキの良さってものを考えていない。ロールケーキは食べながら無になれるのよ。仏教って無になるのが理想なんでしょう? 裕子ちゃんは相当、無になって食べているもの。これは、すごいことじゃない?」
すると冴馬は小首を傾げて、いたずらっ子のように言った。
「そうかな。僕には、何かから逃げているように見えるよ。執着の対象を変えただけで、根本的なものからは逃げている。」
「……逃げちゃダメなの?」
ガリ子は言った。真っ直ぐな目で冴馬を見ている。その時、私はデブ子にはなにか、真っ直ぐに受け止めてはいけない現実があるのだと思った。それはきっと、ガリ子にしかわからないことだ。冴馬が言った。
「逃げてもいい。だけど、生きることって本当に面白いものなんだよ。彼女には、既に次のステージが用意されている。そのステージが来た時にはもう、同じ場所にいてはいけないんだよ。」
そう言うと冴馬は、デブ子の巨大な手を取って、その身体を起こした。デブ子はぬぬぬ、とゆっくりとゆっくりと起き上がった。冴馬は言った。
「これから一週間、お世話になっていいですか? ただいるだけなので、気にしないでください。」
と。私は愕然として叫んだ。
「さ、冴馬! ここにいるって、どういうことなの? ここに住むの!?」
「ハイ。ご迷惑でなければ……」
「って、普通に考えたら迷惑に決まってるじゃない? そ、それにいくら巨体とはいえ、お嫁入り前の娘さんの家に泊まるだなんて、あり得ないわよ!」
「ちょっと、ヒカルさん! 私のお友達を巨体扱いしないでちょうだい!」
「あ、ごめん!」
「っていうか、お前、こんなところに泊まってどうするんだよ?」
すると冴馬はにっこりと笑って言った。
「わからないよ。ただ、思いついたから……」
(思いつきなんだ……)
冴馬の一言に全員が同じショックを受けていた……。
私は、冴馬にはいつも素晴らしい考えや見通しがあって、色々なことを言っているように思っていた。なのに、冴馬は「思いつき」だなんてことを言う……。
冴馬は、全部思いつきで生きているの? 何か悟っているとか、そういうこととは違うの? すると冴馬は静かに語り出した。
「思いつくことを軽く見てはいけないよ。なぜ、自分がそう思いついたのかをよく考えてご覧よ。なぜ、高橋君がガリ子さんと付き合うことになったかわかる? それはガリ子さんにしか思いつけないことを、高橋君の存在が思いつかせたからなんだ。なぜ、ガリ子さんがたくさんいる男性の中から高橋君を選ぶことができたのかわかるかな? 一人一人の頭の上に、アンテナが立っているんだよ。そのアンテナは、自分にしか受信できない信号を、受信するようにできている。だから、どんな思いつきもその人しか受け取れないメッセージなんだ。」
(それじゃ、冴馬の頭にはアンテナが立っていて、私もそのアンテナに引っかかったってことなの……? 私のことも、ちゃんと受信してくれたの?)
「大山さん、君のご両親は多分、家にいないんだね?」
すると、デブ子は黙って頷いた。
「それじゃ、みんなそろそろ遅くなるから、家に帰った方がいい。」
「って、冴馬! 本当にここに泊まっていくの!?」
「うん。ほら、僕は天涯孤独だから、家に帰っても一人だし。」
「って、いつまでここにいるの!?」
「差し当たって、一週間ぐらい」
「…………。」
冴馬なら、きっとデブ子のうわべを見ずに心だけを見てしまうんだろう。その心がもしもすごくきれいで、デブ子は見た目はマツコデラックスだけど心が女優の松たか子さんみたいだったら……タカコデラックスだったら? 二人が一緒にいるうちによもや、男女の関係になったりするんだろうか。冴馬は優しいからデブ子を立ち直らせるために付き合うとか、あるかもしれない……。だけどデブ子はこのままでは、いつまでも過食症で登校拒否の、デブ子のままだわ……。
私は心配で胸が張り裂けそうだったけど、妄想でいっぱいの頭を振り払って言った。
「それじゃ、私、明日から学校帰りにここに寄るから! ついでに入部届も持ってくるから大山さん、うちの入部届にサインしてちょうだい!」
「えっ……入部届……?」
「文化部なの。大丈夫。座禅するだけの簡単な部活だから……」
いつの間にか私の口からも冴馬が言ってたようなテキトーな勧誘文句が出てきて、びっくりするやらやきもきするやら、馬鹿馬鹿しいやらでくたびれた私は、道場のあるわが家に帰った。珍しく夜の9時を過ぎていて、家の前で父親が腕を組んで待ち構えていた。