本日のコラムは、
読売新聞青森県版 山田スイッチのTHE・青森暮らし を
加筆・修正させていただいております。
4月25日のイベント、「竹山にありがとう」へ
ぜひとも皆さま、足をお運びください。
竹山にありがとう 実行委員会 山田スイッチ
友人に、青森放送に務めているお美緒さんという、
とても素敵な女性がいます。
彼女は青森放送のラジオ番組「あおもりTODAY筋野商店」や「あさぷり!」の担当
ディレクターでもある。
お美緒さんに会うと、いつも彼女の企画した、ものすごいイベントの結末を教えてもらえる。お美緒さんが言った。
「うちの会社で24時間、ずっとラジオ番組をやる24時間ラジオっていうのがあるのね。」
「24時間、ラジオですか!?」
「去年、サンロードでね、目の見えない女性3人に集まってもらって、
オシャレについて語ってもらったの。そしたら、すごいの。視覚障害のあるAさんが胸の辺りを指さしてね、『この辺に、猫の模様が入っている、はず!』って。それを受けたBさんが『私も、この辺にお花の模様が入っている、はず!』って。」
「はずって……、あ、アバンギャルドだなあ……!」
「彼女たちは、オシャレに関しては真剣よ。もちろんお化粧だってするし、オシャレに対する考えはみんなそれぞれなんだけど、たった一つだけ共通して言うのが、『ヘルパーさんがオシャレじゃないとオシャレにならない!』」
「ななな、なるほど~! なんか、格好いいですね!」
お美緒さんが続けていった。
「2年前のことなんだけど、大野小学校で高橋竹山のお弟子さんだった、西川洋子さんにどだればちサンバを三味線で演奏してもらって、全校生徒で踊るっていう企画をやったのね。」
「ほうほう!」
「そうしたら、幕が上がる寸前に洋子さんの三味線の棹が、バキって折れたの」
「えっ、えええええ?」
「もう幕が上がる寸前だったから、どうしようどうしようって、みんな焦ってたんだけど、洋子さんが、……あれまあ、折れてまったなあって」
「ええ~っ!」
「そうしたら、ダンナさんに、普段演奏しない竹山の三味線を持って来てって言ったの。洋子さんがその日、たまたま持っていた竹山の三味線は、今の三味線みたいに派手な音は出ないけど、それは竹山が30代の頃、成田雲竹の伴奏をしていた時の三味線だったのね」
竹山の三味線は、やわらかい、小さい音で。その時演奏されたのは、まさに70年前の三味線の音だった。
「洋子さんがね、だんだん本当の三味線の音って聴かなくなったから、竹山先生、子供達に本当の三味線の音を聴かせたくて、わざと私の三味線壊したんじゃないか……って。」
演奏が終わると、手伝いに来てくれていた父兄の人たちも、先生方も、みんな涙で目を潤ませていた。竹山の三味線が奏でる小さな音が、みんなの心を一つにしてしまっていた。
三味線の原点の音って、一体どんな音なんだろう……?
目の見えなかった竹山には、世界はどんな風に感じられていたんだろう。
「私、竹山に若い頃、マンマかへられて(食べさせてもらって)いたのよ」と言ったのは、
私の大好きな民俗学研究家の田中忠三郎先生だった。
「その頃私、遺跡の発掘を10年やっていて、発掘なんかじゃマンマ食われなくて。門つけをしていた竹山に、マンマかへてもらってたのよ」
竹山はたいそう、ねぶたが好きな人で。
竹山の吹く笛の音は、たいそう澄んだ音がしたという。先生はその頃、ラジオで棟方志功が竹山に会いたがっているのを聴き、2人を引き合わせた張本人だった。
竹山と志功は一瞬のうちに打ち解け合い、
「竹山、今日はねぶただ~、ねぶただ~!」「志功よ~!」と、初対面で名前を呼び捨てあって、その場でピョンピョン跳び始めたという。
「竹山にマンマかへてもらった、お礼がしたい」と、田中先生が言った。
お美緒さん
「それじゃあ、本当の三味線の音も西川洋子さんに弾いてもらって、竹山にありがとうを言う日を作りましょう!」
私とお美緒さんは、
今月25日に竹山のイベントを組むことに決めた。
竹山がどんな人だったのかを、
知ってもらう日にしたいと思う。
竹山にありがとう 2010年4月25日(日)
PM3時開演 (2時半開場)
出演 三味線 西川洋子
語り 田中忠三郎
聞き手 山田スイッチ
場所 青森市 旧おきな屋本店(青森市新町2-8-5)
チケット 1,000円 付き添いの方(ヘルパーさん)無料
お申し込み・お問い合わせ
こちらにお名前と連絡先お電話番号を記入して
メールでご連絡ください。
竹山にありがとう 実行委員会
企画・協力 青森放送
※会の後、田中忠三郎先生のコレクションから、本物の縄文土器を
お借りして、本物の土器に触ってみようというコーナーを設けます。
ぜひ、足をお運びになってください。