無意味せんげん - 山田スイッチ –
山田スイッチは、一切意味を求めません。ちなみに7歳男子と3歳男子を田舎で子育て日記。
2007/07/17 カテゴリー: ブログ。 タグ: うちおじいちゃん うちのおじいちゃん はコメントを受け付けていません

ここ二~三年、ずっとうちのおじいちゃんのことを考えているのだけども。
私のおじいちゃんは、なんというか。すごい障害者だった。

すごい障害者って、どの程度って言われると、
まあ、口は言語障害で「うおおおい」しか言えない。
体は麻痺して動かないから寝たきり。
トイレは尿瓶。って、そんな感じ。

だけどおじいちゃんはすごく、元気だった。
テレビで相撲を観るのが何より好きで、
酒でアタッた(東北では脳卒中になることを「アタル」という)
にも関わらず、毎晩七時の吸い飲み一杯の晩酌を、
ことのほか楽しみにしていた。

7時になるとおじいちゃんが吠える。
「さとこ!お酒持って行って!」
と、何度かおじいちゃんにお酒を運ぶ係をやった。

私のおじいちゃんは、私が生まれる寸前に脳卒中で倒れたので、
私にとっては最初からおじいちゃんはあの
おじいちゃんだったので。

おじいちゃんは、吠えてうるさいけど
どこもおかしくはなかった。

よく覚えているのは、私が4歳ぐらいのころ
大雨で洪水警報が出ていた時に、
何故かうちには保育園児の私と、その頃は車いすに座っていた
障害者のおじいちゃんしか家にいなく、
(その頃母は仕事をしていた。)

私は大声で泣きながら、
「おじいちゃーーーん!!おじいちゃーーーーん!!
おかあさん、どこに行ったのおおおお!?」
と、叫んでいたこと。

4歳の私はむっちゃ、障害者であるおじいちゃんを、頼っていたんだなあと
思う。

おじいちゃんは、「おーい」「ほーい」しか言えなかったけど、
ずっと泣いてる私と会話していたんだと思う。

おじいちゃんは、最初に脳卒中で倒れてから、
季節の変わり目にはぜんそくを起こしたりもしたけども
それから16年間生きた。

当時は、デイサービスの制度も全然なかったので
うちのおばあちゃんとお母さんはずっと介護をしていた。
だけど、それは案外悲惨ではなく、
体力勝負の、気合いの入った光景だった。
主婦が二人いたから、どうにかなったんだと思う。

今、おばあちゃんたちに当時のことを聞くと、
「あのときは大変だった~」と、
なんとものんきに答えてくれる。

うちのお母さんは、
おじいちゃんの息が止まったときに
すごい勢いでおじいちゃんに馬乗りになり、
胸の辺りをドッカンドッカン叩いて心臓マッサージをし、
おじいちゃんを生き返らせてしまった、すごい人である。

おじいちゃんは一度生き返って、それから一週間生きて、
一週間後の、震度6もあった北海道沖地震の
発生時刻に、病院で亡くなった。

その地震はすごい揺れで、電信柱がぐらぐら揺れてるのを見た
高校生の私は、
「おじいちゃんが電信柱を揺らしてる!!おじいちゃんが!!」

とパニックになって、母親に平手打ちされた。

「いいから掃除しなさい!!」

と。なんとも、生きていくのに間違いのない母親だ。

おじいちゃんが死んで、
父親に報せの電話をした時、声が出なかった。
ふすまを開ければ寝たきりのおじちゃんがいる光景を、
ずっと見ていたので、葬式の日、高校の制服で、おじいちゃんの死んだ顔を見て、
昨日までのおじいちゃんの顔と違って、悲しくて涙が止まらなかった。

そんな、おじいちゃんのことなんだが。
何故か、ここ数年、東京に出た頃から
おじいちゃんが一緒にいるような気がしてならないのだ。

まったく知らない人に、
渋谷の京王線の駅ですれ違い様に、
「あなた、すごい人に守られてるわ。ごめんなさい、つい」

と言われて、

反射的に、

「ああ、おじいちゃんです」 と答えてしまった。

「守られている」と聞いて、私の心に「あたる」のは、
いつも、おじいちゃん なのだ。