昨日の夜、ブッダと佐藤初女さんのことを考えていたのだけど、
初女さんは、受け入れるとは、答えを用意しないこと と言うのですよ。
80数年の歳月をかけて。たどり着いた答えは、人に接するとき
「答えを用意しないこと。」
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本文より
「受け入れるとは、答えを用意しないことです。」
そして
ブッダが、2600年も前にたどり着いた悟りは、諦めること。それを最も大事なことだとして伝えている。
目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、心もなく、思いもない…のが、
理想とされる。
何故なら、我々は見えるせいで見えることに囚われ、
聞こえるせいで聞こえた事ごとに囚われ、
思えるせいで思いに囚われてしまうから。
その囚われから離れるためには、
諦めるっていうのが、大事なんだと思う。
無眼耳鼻舌心意って多分そんな感じ。
そんでもって、諸行は無常。
全ては流れ、変わっていく。常なるものは何もない。
それで、ふと。
受け入れるっていうのは、諦めるってことなんじゃないか?
ってふと、
思ったのですよ。
諦めるというか、目の前にいる人を自分の望み通りにしないというか。
その人がその人である理由を大事にするというか、自分の望むように変えることを諦めるのが、受け入れるってことなのかな って。
その人を変えようなんて本当は、恐ろしいことである。
「変えられてたまるかよ!」って、自分のことなら思えるのに、
人に関しては(とくに肉親に関しては)、うっかりとその基本を忘れてしまう。
あまりにも、自分に近い存在だから、自分と同一視してしまうのですよ。本当は別の人間なのに。
だけど、家族っていうのは1番の他人なんだよね。
そこで、自分と親を分けて考えられれば。
自分も相手も、生きやすくなるんじゃないかなあって思ったのですよ。
分けて、離れて、相手を考えて、自分の成り立ちを考えて。それから
付き合えばいいんじゃないかなあって。
それを考えるにも2009年は、
大切な年でした。
おわり。 (おわりって…。)