無意味せんげん - 山田スイッチ –
山田スイッチは、一切意味を求めません。ちなみに7歳男子と3歳男子を田舎で子育て日記。
2009/12/20 カテゴリー: ブログ。 タグ: ブッダ初女 ブッダと初女さん はコメントを受け付けていません

昨日の夜、ブッダと佐藤初女さんのことを考えていたのだけど、

初女さんは、受け入れるとは、答えを用意しないこと と言うのですよ。

80数年の歳月をかけて。たどり着いた答えは、人に接するとき

「答えを用意しないこと。」


初女さんのおむすび/佐藤 初女
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本文より

「受け入れるとは、答えを用意しないことです。」

そして

ブッダが、2600年も前にたどり着いた悟りは、諦めること。それを最も大事なことだとして伝えている。

目もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、心もなく、思いもない…のが、

理想とされる。

何故なら、我々は見えるせいで見えることに囚われ、

聞こえるせいで聞こえた事ごとに囚われ、

思えるせいで思いに囚われてしまうから。


その囚われから離れるためには、

諦めるっていうのが、大事なんだと思う。



無眼耳鼻舌心意って多分そんな感じ。

そんでもって、諸行は無常。

全ては流れ、変わっていく。常なるものは何もない。



それで、ふと。


受け入れるっていうのは、諦めるってことなんじゃないか? 

ってふと、

思ったのですよ。

諦めるというか、目の前にいる人を自分の望み通りにしないというか。

その人がその人である理由を大事にするというか、自分の望むように変えることを諦めるのが、受け入れるってことなのかな って。




その人を変えようなんて本当は、恐ろしいことである。


「変えられてたまるかよ!」って、自分のことなら思えるのに、

人に関しては(とくに肉親に関しては)、うっかりとその基本を忘れてしまう。




あまりにも、自分に近い存在だから、自分と同一視してしまうのですよ。本当は別の人間なのに。

だけど、家族っていうのは1番の他人なんだよね。

そこで、自分と親を分けて考えられれば。

自分も相手も、生きやすくなるんじゃないかなあって思ったのですよ。




分けて、離れて、相手を考えて、自分の成り立ちを考えて。それから

付き合えばいいんじゃないかなあって。

それを考えるにも2009年は、

大切な年でした。




おわり。 (おわりって…。)