無意味せんげん - 山田スイッチ –
山田スイッチは、一切意味を求めません。ちなみに7歳男子と3歳男子を田舎で子育て日記。
2009/01/16 カテゴリー: ブログ 一月に考えること はコメントを受け付けていません

去年の一月に考えていたことと今年の一月に
考えていたことが、大体のところで同じだったので、
自分ってあまり変わらないのが面白いなあと感じたところなのです。
なんというか。常に、「愛と憎しみ」について考えている……。(笑)

「憎い」が、私にとっての大きなテーマなんでしょうね、きっと。
きっと私の「憎い」なんて、屁のようなものなんですけど。
昨日、実家に帰って訪れた感情は、
すごくふしぎなもので。

何故か、「許してもらえるかどうか」ということを
考えていたわけなんです。

それというのも、「憎い」と思える現状というのは、
時間的余裕があるから発生する事象だと思うのですよ。
ゆとり。
殺しそうなほど憎いなら、その人が抱えているパワーとかエネルギーというものは
相当なものです。
そのエネルギーをもってすれば、
何事をも変える力があるのではないかと信じています。

家出するとか、自活するとか。
「憎い相手から離れるための万全の策をとる」ために
意識を集中すれば、いかようにもなると思うのです。

だけど、憎い感情を温存している状態 というのは、
若干のゆとりがないと続けられないことだと思うのです。
めんどうな年寄りの面倒をみるとか。
過干渉な親の干渉を受け続けながら一緒に暮らすとか。
育児に煮詰まりながらも保育施設に預けないとか。

これは、まだまだ自分の心の余裕を持っている段階だと思えるのです。
どの程度まで、自分が耐えられるのかを試しているのかもしれないし、
いつしか逆転が起こって、その状況を楽しめるかもしれないという、
淡い期待。
この期待が持てる状態というのは、大変にゆとりのある状態といえるのでは
ないか?と思ったのです。

大概の憎い相手というのは、身内だと思います。
他人だったら距離をおけばいいし、もし職場で離れられない状況であっても、
家庭の時間までもは
侵食されはしないでしょう。

身内だから自分の思ったとおりにならないことを、
思った通りにならないからといって怒ったり、
イライラしたりできるのです。
いえ、イライラすると本当にむかつくんですが。

はて。
何故、私は家族と一緒に
いるのだろうか?
離れていても、わざわざ自分から出向いて
会いにきてしまってる。
イライラするのがわかっていても、
わざわざそのイライラする現場におしげもなく
やってきてしまう。

それを、以前は愛だと思っていたのですが、
昨日、ふと。
本当にふと、もっと深い負債のようなものが
あるのではないか?と思ったのです。

負債です。負債。
償わなきゃいけないようなものが、ある者同士が
家族として生まれているのではないか?と
思ったんです。

私たちは体が丈夫な時、暮らしにゆとりがある時、
もっと「良い生活を求める」傾向にあります。
零地点より上にあるとき、ただ雨風を防げる家があることには満足できなくなり、
ご飯が食べられるという当たり前のことに感謝できなくなり、
自分や親が生きているということに、感謝できなくなります。

零地点より下にあるとき、
私たちは路上で寝なくてもいい家があるということに感謝できたり、
食べるものがある、ということに感謝で涙したり、
きちんと呼吸して、生きていることに感謝できると思うのです。

ようは、憎まずにいるためには
零地点より下にいる気分を獲得しなければならないのではないか?と。
その、「下の気分」というのがですね、
一昨年前の一月に私が事故を起こした時の気分。
「自分で一時停止見落とし事故を起こし、
相手の肋骨にヒビを入れた」
時に訪れた、「相手が生身の人間だったら、死なせていたかも知れない」
という恐怖と、贖罪の気持ちに非常によく、似ていたのです。
本当に何もいらないと思えるのは、そんなときです。

自分の子供の点滴に、バクテリアの入った汚水を入れ、
高熱を出した子供をかわいそうにと、懸命に看病する母親……。
子供の症状が回復するとまた同じような行為を繰り返し、
世間から「かいがいしく世話をする母親」と見られることに、
満足を覚える。

代理ミュンヒハウゼン症候群に陥る母親は、
もう、普通の状態では、感謝できなくなってしまった
人たちなのではなかろうか?と思ったのです。

本当に申し訳なく、心から償いたい状態を相手に対して、
「自分で」作ってしまうという……恐ろしい病気だと思います。

しかし、「贖罪の気持ち」というものは
本当に相手に対してひどいことをした時、
現実に訪れるものであるから、偽りがないのです。

愛という感情は、常に一定では無いだけに
憎しみより偽りが大きいと思うのです。
私はこの、偽りが嫌いだったのです。
憎いときに相手を憎める人は、どれだけ幸せなんでしょう。
そして周りの迷惑も顧みずに、父の母である私のおばあちゃんを憎々しげに叱りとばす父親が、
私はイヤだったのです。

そうされることによって、対処の方法がわからず
黙りこくる我々、家族。
それがほんの一時のことであっても、
酒に酔っていたからだとしても
「おばあちゃんを叱った」という怒りと、「父親に逆らったら逆上される」という
恐怖が、黙り込んだ私たちの腹の中に
溜まります。
父親は、自分が言えばスッキリするから、もう
言った後のことなんか覚えていません。
おばあちゃんは傷ついても、自分の子に言われたことだから、
どうすることもできない。
私たちのおなかの中に、得も言われぬ苦しみの珠が発生していました。

人が鬱になりやすい11月から、そういった閉塞的な状況が確実に、
実家にあったのですが。
やっぱり、私は田口ランディさんの「パピヨン」を読んでいるうちに
何か、違うものを手に入れたような気がしたんです。
パピヨン/田口 ランディ

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それで、面白いものを讀賣新聞の青森版に書きました。
それは、うちのバッチャが毎
朝ジッチャを叱る、という記事です。
バッチャは腹の中が非常に明るい人なので、
叱ることに何の裏もありません。
だから、私は嫁ぎ先で大変に心地よく、誰かが誰かを叱っても、
腹の中に抱え込んで苦しむなんてバカバカしいことがない状態に
暮らせて、その心地よさを満足に味わっていました。

これは一つ書いてみよう。
自分のつけたサブタイトルは、「元気の秘密」というものでした。
そして掲載日当日、讀賣の担当編集の方が付けてくれたタイトルは、
そのものズバリ。

「ジッチャ叱って ストレス解消」
というものでした。

山田スイッチの『言い得て妙』 仕事と育児の荒波に、お母さんはもうどうやって原稿を書いてるのかわからなくなってきました。。。-THE 青森暮らし 66回
讀賣新聞 青森県版 2009年1月10日掲載
山田スイッチのTHE・青森暮らし

その記事が載った時の、なんともいえない爽快感。
実家では讀賣新聞を取っているので、
私は父がそのページを開いた時に、
「ブッ」と、真面目に驚いて吹き出すのを見ていました。
そうだよ、お父さんは自分の母親を叱って、ストレスを解消してたんだよ!!
ようやく今、気付いたでしょ!

その後、訪れた感情が、あの「贖罪」というものだったのです。
親子は、その親や、子に、許されるために
生まれてきているんじゃないか と。
私は親に対して非常に大変な罪を、前の世に犯していたんじゃないかと。

そう思ったら、何故か非常に透明な気持ちに
落ち着いてきたのでした。