無意味せんげん - 山田スイッチ –
山田スイッチは、一切意味を求めません。ちなみに7歳男子と3歳男子を田舎で子育て日記。
2008/01/30 カテゴリー: ブログ 憎いが気になる。 はコメントを受け付けていません

憎いという感情が気になって「憎いって何だ!」としばらく考えていたのですか。
とりあえず、基本は八代亜紀の憎い~恋しい~憎い~恋しい~巡り~巡って今は……憎い!」ということで。(いや違うだろ?)

簡単に考えると、憎いという感情は表現すると気持ちいいのではないか?と思うのだ。

憎い相手を憎むのは、快楽につながっているんじゃないかと。
例えば、「お弁当に入っている煮物の汁が白米に漏れるのが憎い!」場合、一番気持ちいいのは「弁当を床にたたきつけること」だと思うんですね。

だけど、大概の人はそれをしないんです。文句言いながらモサモサ食っちゃう。
後で片付けるのも自分やし、そんなん人に見られたらどう思われるやろ?ってことが、ようわかってるから。
だから、「弁当叩きつけたさ」を表現するのは、犯罪か芸術の仕事だと思うんですよ。現実でやったらやばいから。

憎しみの実現ほど気持ちいいものはないんでないかなと思うのです。
何故なら大概の人は憎いのを我慢して我慢して、我慢して耐えているからです。
憎いのもまたエネルギーになるので。
そのエネルギーの使い方を憎しみ以外で使えるのが唯一、人間なんだろうなと思います。

憎いものを憎めたら気持ちいいからね。だから、どうしたらその気持ちよさを捨てられるのかっていうのが非常に難しいことで。人は思った以上に欲望に負けやすく、欲ってのが人の本質だから、大変なんだよね。
「欲あっての人だよ」は西原理恵子先生の言葉。

それでも、どうにかしたいっていうのが、人の世の切ない望みなんだと思う。
だから宗教は憎むべき敵を愛せないのが人だから、愛せ愛せと言ったり欲を捨てられないのが人だから、執着は捨てろとおっしゃられる。

力で押さえつけないと人はどんどん悪くなる。(ケンさん・談)だけど、宗教のすごいところはただの思想だということだ。

思想は基本的には、押し付けられるものではない。なのにキリストとか、ブッダの言葉が千年単位で残っているのは、必要で残っているのだと思う。

関係ないけど、恋愛をまだしたことがなかった小学校の頃って、男子も女子も、顔が良ければモテたよね。
あれは、キレイな顔を見ることになんらかの快楽物質が出てたからだと思うのだ。美男子(ヨン様とか)に口説かれたらグッときちゃう。
逆にブサイクな女子か男子は、ブサイクだというだけで憎まれた。不快な相手を憎み、行動するのは気持ちいいものだから。

そこで、その人間がどれだけ単純な人間かがばれてしまうわけだけどね。

単純な人間が一番迷惑だ。だって、単純だから憎いから憎むんでしょ?んで、ついカッとなったら殺しちゃうわけでしょう?
そんな奴と結婚したら大変よ。
憎いって感情は自然なものだから、「ああ、私も人だなあ」と思えばいいのにと思う。

憎いのが面倒なのは 相手を捨てられない時ばっかりで。本当は捨てちゃえばいいのにと思う。親だから捨てられないわけじゃないと思う。捨てちゃえばいいのにと思う。そうしたらせめて、殺さずに済む。

多分、憎くても一緒にいるのは、どう考えても愛によるものだから面倒なのだ。(やっぱり八代亜紀なのだ。)