無意味せんげん - 山田スイッチ –
山田スイッチは、一切意味を求めません。ちなみに7歳男子と3歳男子を田舎で子育て日記。
2006/12/12 カテゴリー: ブログ。 タグ: 送り 舟送り はコメントを受け付けていません

日曜日は青森県立美術館で、内藤礼さんの舟送りを観てきた。
「舟送り」という言葉にすごく、惹かれるものがあって。
どうしてもそれがみたくなった。
舟送りは、儀式だった。

内藤礼さんの作品のことは、田口ランディさんの
「ほつれとむすぼれ」という本の中に出てくる。
その中の、「小さきものの力 内藤礼さんの世界」を読んで
そこに表現される内藤さんの作品を、直に観てみたいと思った人は
少なくないのではないかと思う。
私も、この文章を読んでから内藤さんの作品に惹きつけられた一人である。

「(中略)そんなことが何になるんだ、という、その問いを撥ね返すほどに、
この「場」はすでに生きて存在していた。生きているものにその存在を
問うことは、同じ問いを自分に向けることになる。
なんで、そんな脆弱で、力もないのに、いつか壊れるのに、存在しているんだよ?
 何年問い続けても、ついに得られなかった問いの答え。
 でも、内藤礼さんの、とてつもなくか弱い作品の前に立ったとき、
 私はなぜか長年のその問いに肯定的な答えをもらったような気がしたのだ。」
(田口ランディ「ほつれとむすぼれ」(角川書店より)

まるで、「古代の聖地のような「場」を作る」というその彼女の、
作品に。この日は参加できるのだという。

内藤礼さんが青森県立美術館に作品として展示されていたものは、
あまりにも静かで、しかし迫力のあるものだった。
白くて、陽炎のようで。展示を一瞬、通り過ぎてしまう。
しかし、通り過ぎた後に
「今、宮殿のようなものが見えた」
と思って引き返すと、
そこへは陽炎のように、空中に浮かんだ巨大なシャンデリアの(ような)
立体が見える。しかしよく見るとそれは立体ではない。
一枚、一枚のひらひらした細いプラスチック(それは紙かもしれない)が
天上から幾重にも吊され、光を受けて一つの幻惑をつくっている。

その場所から、内藤礼さんの舟送りが始まった。
内藤さんが参加した50人全ての人に、胡桃ほどの大きさの
小さな器をそっと渡していく。
その、渡し方に何か呪術的なものがあり、
受け取った人は両手を重ね、その手に白い糸で結ばれた舟を持つ。
小さな器であるのに、片手でそれを持てる人は 一人もいなかった。

両手で大事に持つとそれは、ハート形の手の平の上に鎮座しているようになる。
黙ってそれを見つめてしまう。
こわいくらいに、私は自分の手を見つめているな、と思った。

手をずっと黙って見ていると、手の意味が消えて
造形としての、何か深い趣のある作品のように「手」は見えてくる。
ハート形につくられた手の形、皺、深い深い、何かある物体としての、手。
その手を見せたくて、内藤さんは50人の人に、あのような舟の渡し方を
しているのではないかと思った。

その場所から、鉄の階段を登って地上に出る。
内藤さんからは一言も発せられない。
私達はその手のまま舟を大事に押し抱いて階段を登る。

地上に着くと内藤さんは、雪原を無造作に歩いていった。
その後に私達も何も言わずについていく。
内藤さんは黙って雪を掘ると、
白い雪の上に、雪の下に眠っていた緑のクローバーが現れた。

「あ、なるほど」
と思った。
それがキレイだったから。
持っていた舟の、糸をほどいて
丁寧に埋めると、静かに雪を被せた。
私達はそれにしたがった。

雪を掘り、緑のクローバーが出てきた瞬間は
胸がきゅんとするような、変な感じだった。
内藤さんは、このことを実現させるために、
五十個の舟を作り、その一つ一つをか細い糸で結んだのだろう。
階段を降り、元の場所に戻ると
丁寧に折られた、白い紙を手渡された。
そこには小さな薄い逆向きの文字で、
こう書かれてあった。

        舟送り その方法

その場所の土と水をこね 一そうの舟をつくる
  池、川、山、道、庭…
(かわいた舟に、あのすきとおった兎の膠をぬってもよい)
舟に糸を結ぶ
あるとき 糸をほどき舟にあなたのたましいをのせる
その場所に舟を送り返す
そののち

つくられたものを放ち
与えられたものを返す


田口 ランディ
ほつれとむすぼれ