ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観

最近読んだ本で、アマゾンのピダハンという部族を紹介した

ダニエル・L・エヴェレット著の
『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)
というものがあります。
 
本の中で紹介されるピダハンという部族の使う言葉は、
語彙が極端に少なく、右と左という概念がないそうです。
右と左もなく、「神様」という言葉もなく、
赤とか青などの色を表す言葉もない彼らは、
漁と狩りをして暮らしています。
 
 神という言葉のない世界のピダハンに、
聖書を持って宣教師としてやって来た著者は
 
ピダハンと暮らすうちに布教を断念し、
「神はいない」ということに気づいてしまいます。
 
これは、本当に面白い、ピダハンという部族の
価値観を記した本です。
「この話をすれば、落ちる!」と思って信仰告白をしたダニエルに
思いも寄らない出来事が起こった場面が最高なのです。
 
ょっと長いのですが、私的に相当ウケた内容なので、
読んでみて下さい。こーれは、現代日本ではあり得ないわ~!
ピダハン最高だわ~!
 
 
366~367p 
 
 ピダハンとの生活を始めた初期のころのまた別のとき、
ピダハン語もかなり上達したので、自分がなぜイエスを信じ、
救い主と考えるようになったかをそろそろ話すことができると考えた。
 
これはいわゆる「信仰告白で」で、福音主義派のキリスト教徒にはふつうのことだ。
考え方としては、語るもののイエスを受容する以前の人生がひどければひどいほど
神の救いの奇跡は大きく、そうなれば聴衆のなかでイエスを信じていなかったものの
信じようとする動機も大きくなるだろうというこだ。
 
それは宵の口、わたしたちの家族が夕食を終えた直後で、
午後七時ごろだった。マイシ川で水浴したわたしたちはまださっぱりした気分だった。
 
こういう時間帯、わたしたちはみんなにふるまうコーヒーを用意し、
村人たちは我が家に入ってきて腰を据えたり、ただ顔を出したりする。
そんなときわたしは、
神への信仰や、わたしがピダハンも同じように神を求めたほうがいいと信じる理由などを語った。
ピダハン語には「神」に相当する単語がないので、わたしはスティーヴ・シェルドンに勧められるまま、「Baixi Hiooxio マイーイ ヒウオーイオ(上の高い父)」という表現を使っていた。
 
 私たちの上の高い父が、わたしの人生をよくしてくれた、
とわたしは言った。
 
以前はわたしもピダハンのようにたくさん酒を飲んだ。
女に溺れ(というのは誇張だが)、幸せでなかった。
すると上の高い父がわたしの心のなかにやってきて、
わたしは幸せになり、人生もよくなった。
 
急ごしらえで考えだしたこの目新しい表現や喩えがピダハンに正確に通じるのかどうか、
まったく考えていなかった。
自分では意味をなすと思っていた。
 
そしてその夜、わたしはきわめて個人的な話をしようと決心していた-
これを話せば、神とともにある人生がいかに重要かをきっと理解してもらえるだろうと思っていた。
 
わたしはピダハンに、継母が自殺したこと、
それがイエスの信仰へと自分を導き、
飲酒や薬をやめてイエスを受け入れたとき、
人生が格段にいい方向へ向かったことを、
いたって真面目に語って聞かせた。
 
わたしが話し終えると、ピダハンたちは一斉に爆笑した。
 
ごく控えめに言えば、思いもよらない反応だった。
 
この話をすれば、
わたしが味わってきた苦難の連続に感極まり、
そこから救い出してくれた神に心打たれた聴衆から
 
「ああ、神様はありがたい!」と、嘆息されることに慣れっこになっていたのだ。
 
 
「どうして笑うんだ?」
 
「自分を殺したのか? ハハハ。愚かだな。
ピダハンは自分を殺したりしない」
 
みんなは答えた。
彼らはまったく心を動かされていなかった。はっきりしていたのは、
わたしの愛する誰かが自殺を図ったからといって、
ピダハンがわたしたちの神を信じる理由にならないということで、
実際のところこの話はまったくの逆効果、
彼らとわたしたちとの違いを浮き彫りにしただけだった。
 
伝道者としてのわたしの目標は大きく後退した。
このあと何日も、わたしは自分がピダハンとともに暮らす意味を必死で考えた。
 
 

『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)より

 

ねえ、ウケるよね。

 

ピダハンの本は値段だがけっこうするので、

図書館に行って読むといいよ!

 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観