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ダーリンはブッダ 最終回 神様の言う通り

イラスト/ナカエカナコ             
ダーリンはブッダ 最終回 神さまの言う通り
               
「ヒカルさん、あなた剛玉君と何かあったの?」
 翌日、ヒカルは学校には行かずにデブ子のマンションにガリ子といた。三人でコタツに入ってミカンを食べている。ガリ子もミカンを5ミリほどの粒にまで分解し、一粒一粒食べている。ヒカルはミカンを剥きながらぶるぶると首を振った。
「それじゃ、他の男の子と何かあったのかしら?」
 ガリ子の鋭い質問に、ヒカルは苦悶の表情を浮かべた。
「なんでもない……」
「本当に?」
「なんでもなく、ないかも……」
「やっぱり。何があったの?」
「北校の、相原さんに……昨日、キスされた」
ガリ子はヒュウと口笛を吹いた。
「す……すごいじゃない。ヒカルさん、やるわね。だけどヒカルさん、あなた剛玉君のことが好きなんじゃないの?」
「ええっ、そうなの?」
 デブ子が今、初めて気付いたように言った。それよりもガリ子には私が冴馬を好きなことが何故バレたんだろうか……。
「ヒカルちゃんも冴馬君のことが好きだったら……私、身を引こうかな。私、ヒカルちゃんの方が好きだもの。」
 デブ子が泣けるような台詞を言ってくれる。ヒカルは、デブ子のぬいぐるみのような巨体が大好きになっていた。デブ子は透明なくらい、気持ちがきれいなのだ。
 
「相原さんっていう、北校の総長で、三年生なんだけど。私、ずっと彼のことどこか体の弱い人だと思ってたの。いつも咳き込んでるし。だけど、話を聞いてると面白くて、本当はたくましい人なんだって昨日、思ったの。本当はキス、したくなかった。だけど、私、よけれなかった。なんだか、吸い寄せられるように、キスしてた……。」
「……これは、恋ね。」
「ううん、恋とは違う……だけど、キスされたら、キスされたことばかり考えてる。何故だか意味がわからない。意味を考える能力がなくなって来てる。でも、本当は私……冴馬とキスがしたい……。そうじゃないと、何がなんだか、私の気持ちがわからない。」
 
「冴馬君ね……冴馬君って、キスなんかする柄かしら?」
 冴馬のことを思い浮かべると冴馬のきれいな髪や、意外とたくましい血管の浮き出た白い腕や、隣にいて何度もドキドキした形のいい肩が自分から遠のいてしまいそうで恐かった。冴馬のあの太陽に照らされた大陸の人のような匂いが、無性に恋しい。
 
「私、冴馬とはずっと、一緒に歩いているだけでいいって思ってた。尼僧みたいにずっと潔癖を保って、嫌われないように一緒にいれたらいいって思ってた……。だけど、たった一瞬のことなのに、相原さんが消えない……。」
 
 ガリ子は難しい問題を解くような顔をしてキッパリとこう言った。
「消えないのは困ったものね……どう? いっそのこと、両方と付き合えば。」
「そ……そんなのできるわけないでしょう!」
「そうかしら。だとしたら、あなたがどうしたらいいのか、あなたはちゃんと知っているの? ヒカルさんって、昔の少女マンガみたいに無駄なことしそうだから私、今のうちにいい方法を教えるわ。」
「えっ……。」
「誰でも知ってる方法よ。とても簡単だからみんな忘れてしまっている魔法があるの。小さい頃によく言ったでしょう? か・み・さ・ま・の……」
「い、う、と、お、り……?」
 私とデブ子はハモってしまった。ガリ子はにやりと笑った。
「その通りよ。ヒカルさん、神さまの言う通りに行動すれば大体のことは合っているのよ。」
 
「でも私、うちが宗教で神さまを利用してこじんまりと稼いできたから、神さまなんて、信じられない。」
「バカね。信じる信じないじゃないのよ。その辺にいるのよ! 八百万の神なんて言ったらその辺に八百万よ。思った通りに動けばいいのよ。大体、キスされたぐらいで悩むことないのよ。キスぐらいじゃ子どもだってできないわよ。いい? あなたが、好きだと思ったらキスしていいのよ。それに、好きな人枠がたった1人だとは限らないじゃない。」
「ええっ、1人じゃないの……?」
「別に1人でもいいけど、そんなに悩むんだったら両方とキスしてから悩めばいいのよ。私、痩せたい痩せたいっていつも言うくせに、一向に痩せない人を見るとイライラするの。あなたの痩せたさは口先だけ? って思うのよね。ヒカルさん、あなたは子どもみたいに『好きだけどもう会わない』とか、そんな台詞言わないわよね? 言ったら私、絶交するから。」
「わ……わかった。」
 ガリ子の正直さは、他人に対して正直なんじゃない。自分に対して正直なんだ。そしてそう正直であることを私にも要求してくる。
 ガリ子は、色々な条件を取っ払って、本当の私が何をしたいのかを問うてくる。私は、誰とキスがしたいんだろう……。
 相原さんにキスされた時、びっくりするくらい、相原さんの気持ちが伝わってきて、私は、そう。困ったのだ。こんな風に、私も冴馬のことが好きだから。心臓がつぶれそうなくらい、好きだから……。
 
 一日経って学校へ来ると、昨日は胸がつぶされそうなほど辛いと思った出来事が、なんてことのないように感じた。みんな、精一杯に生きているのだと感じて驚いた。
 昨日、アイラ先輩はサイトを更新して新しい悪口を書いたのだろうか。それすらも、どうでも良いことのような気がした。彼女はきっと、思う存分傷つきながら育って、その傷を同じ分だけ誰かに返さないことには、治らない病気を抱えているのだろう。
 昨日の夢には冴馬と、アイラさんが出てきた。彼女は一生懸命言葉を紡いで言葉によって誰かを操ろうと必死になっている。だけどその彼女の腕を誰かが操り人形の糸で操っている。糸がこんがらがって、彼女はぐるぐる巻きにされている。彼女はベッドの上で口から蜘蛛のように糸を吐き、その糸が全身に絡まっている。糸を断ち切る方法がわからないねと私は部室で冴馬に相談している。
 すると冴馬は短めの斧を持って、「僕は彼女がその糸を切る手助けをしたい」と言って、自分の腕を蜘蛛になったアイラさんの前でザックリと切り落としてしまうのだ。私が叫ぶ。画面が真っ赤に染まる。冴馬はもう一方の腕を切るようにアイラさんに片腕で斧を渡して言った。
 
 「心の赴くままに、傷つけていいのは僕までなんです。どうか、ヒカルさんを傷つけないで下さい」
 冴馬は冷静に語っているのだけど片腕からの出血が止まらなくなっている。私は半狂乱になって「冴馬のバカ! 冴馬のバカ!」と叫んでいる。だけど血だらけになった冴馬があまりにも冴馬らしいので、私はそのままの腕のない冴馬を抱きしめて愛していると思う。
 その時、夢の中だけど私は、両腕のなくなった冴馬を一生、守って生きていこうと思った。そうか、私の思う好きって、こういうことなのか……。
 冴馬が、好き。冴馬が、大好き……そう思っていたところで、目が覚めた。
 
 目が覚めると私は、枕がずいぶん濡れていることを知った。眠りながら泣いていたらしい。心臓がバクバクと鳴っていた。
 あまりにも強烈な夢で、現実の私達に起こる小さな問題が霞んで見えそうだった。夢の中で冴馬の両腕がなくなっていたから、冴馬の身に何か起こらなかったかどうか起きてからひどく心配した。心配しながらも、冷静さを取り戻すと唇が熱を帯び、昨日触れてしまった相原さんの唇を思い出してしまった……。キスって一体、何なのだろうかと思う。
 冴馬にキスして、と言ったら、冴馬はキスしてくれるのだろうか。冴馬のことは全然読めない。
 
 夢のせいで心と体が珍しいバランスになっていて、体がフワフワと浮いているような気持ちになっていた。学校の階段を降りながら昨日のことを一切忘れてしまって、いつもの通りに「おはよう」と言うと、つられて昨日私を無視した女の子が「おはよう」と言った。不思議な、夢の延長線上にあるような一日だと思った。
 
 仏教部の部室に行くとやはりそこには、「蕎麦」と書かれた紺色の暖簾が下がっていて、「ああ、やっぱりドアは壊されて蕎麦屋の暖簾になったのは現実だったんだな……」と思ったのだけど、中に入ると思いもかけない奇跡が起こっていた。
 仏教部の部室に、ガリ子と、ずっと学校に来ていなかったデブ子が一緒にいたのだ。
「ヒカルちゃん、おはよう」
 と、デブ子は言った。体に合う制服が間に合わなかったのか、紺色の制服と同じ色のニットのワンピースを着ていて、それがすごく似合っていた。
「昨日のヒカルちゃんが心配で、学校に来ちゃった。今日から、ちょっとずつ通おうと思うの。」
 そして小声で私に囁いた。(もうキスのこと、大丈夫? 心配ない?)と。
 
 私はデブ子に心配されている。きっと、私が彼女たちを心配するよりもずっと、ガリ子とデブ子は私を心配してくれている。
 顔を上げると冴馬がにこやかに私の方を見て微笑んでいた。
「冴馬……」
 私は言った。近づくと冴馬の匂いがする。冴馬の匂いは私を暖かく包んでいた。苦しいほどに香る、冴馬の匂い。とくん……と、自分の心臓が動くのを感じた。
「私、冴馬のことが好きよ。」
 そう言うと、やっぱり冴馬は全然読めないけども邪気のない笑顔でこう言った。
「僕もですよ、ヒカルさん」
 と……。
                              ダーリンはブッダ・完

 

 

ダーリンはブッダ 第14回 ベビースターの人

イラスト/ナカエカナコ             
 
ダーリンはブッダ 第14回 ベビースターの人
              
「ちょっと、店長またベビースター来てますよ〜。もう1ヶ月くらいずっと通ってきてますよ〜? もう、皆勤賞あげたいかも。」
「シッ! ベビースターって呼んだら本人に気付かれるでしょう? だけどベビースター、またジャンプ立ち読みしてるの? よく毎日2時間も同じジャンプ立ち読みできるわよね。ルフィのセリフとかもう暗唱しちゃうんじゃないの? だけどアレ、ベビースターは恋する男の目をしているわ。なんか、焦燥感に溢れているもの。ドトールコーヒーとベビースター持ってくる目が可哀相でそそるわよね。」
「ジャンプ読んでるふりして誰を待ってるんでしょうね〜。」
 コンビニ店員の会話に気付きもせず、相原はあの北校の事件の後、ヒカル恋しさにねんざが治ると学校帰りにわざわざ北校と正反対の方角にある西校近くのコンビニでジャンプを立ち読みし続けた……。ユージに北校の密室で何もできなかったことをこの一ヶ月間散々バカにされ続け、自分でもどうして携帯の番号すら聞かずに過ごしてしまったのかと悔やみに悔やんだのだが、たどり着いた結論は、「偶然ヒカルに出会うよう心がける」ことだった。哀れなほどに相原は純粋だった……。
 あれから1ヶ月、ヒカルがローソンに入ってくる日は訪れなかった。ヒカルは放課後は仏教部の部室で夕方まで過ごすか、ローソン前を通らない急な坂のある近道を自転車で帰って、タクシー移動のガリ子とデブ子のマンションで落ち合ったりと。それなりに忙しかったのだ。そんなヒカルが無意識でローソンに立ち寄ったのは、ひゅうひゅうと心に吹いた薄ら寒い風をどうにか、和らげたかったからである。入店のチャイムが鳴ると、ジャンプを立ち読みしていた相原はヒカルの姿に驚き、ヒカルの姿が菩薩のように輝いて見えた。コンビニに菩薩が入ってきたのである。
(や、やっと……やっと会えた……)
 ヒカルは相原に気付かずに文具のコーナーに行き、黙って消しゴムを見つめた。消しゴムがトラックに積まれ、中央から運搬されてこのローソンにたどり着く様が目に浮かんでくる。それと同時に瀬ノ尾アイラのパソコンが起動しているのも感じる。
(この状況は、いつまで続くのかしら……)
「ヒ、ヒカルさん!」
 驚いて顔をあげると、そこには印象深い黒髪の、相原が息を切らして立っていた。
 
「ごめんなさい……、上着、すぐに返そうと思ったんだけど連絡先がわからなくて……北校まで持って行くの、ちょっと恐かったから。」
 ヒカルは空手道場と宗教の看板を指差して、「ここが私の家。」と、遠慮がちに言った。相原はローソンからヒカルの家まで歩いてくる間、この世が変容していくような不思議な気分に包まれていった。見たこともない団地と、家の近所を少し恥ずかしそうに歩く見たこともないヒカルの表情。以前会った時よりも憂いを帯びたヒカルの顔を、相原は切なく思い、もっと好きになっていた。
 バイクを乗り捨てて来て、本当によかった。自分が乗ってきたバイクをローソン前に置き去りにして来た相原は、後からまた西校側のローソンまで歩いて帰らなければならない。だけど、そんなことよりもヒカルと一緒に歩きたかった。歩いてみるとヒカルは、とても小さい女の子だった。相原の身長が高すぎるのかもしれないが、自分よりも30センチも背の低い女の子が、小さな頭にポニーテールを揺らし、白い息を吐きながら歩いている。北校では見ることのない、華奢な女の子という生き物……。
 総長の相原は北校の三年だが、ヒカルはまだ西校の一年なのだ。年下の女の子が、こんなに小さいものだとは思わず、心臓が痛いくらいにドキドキした。ヒカルは、あれほど学校で色々あった帰り道に相原に偶然出会ったことを、不思議に感じていた。
(どうしてだろう……誰かに聞いて欲しい時に相原さんに会うなんて……)
「あのね、相原さん」
「ハ、ハイ」
「今日、学校でクラスの女の子に、無視されちゃったの。昨日まで普通に話しかけてくれていた子が、急に知らんぷりして態度を変えるって、男の人でもよくあることなのかしら……」
 すると相原はカッと目を見開いて言った。
「何ィ!? ヒカルさんのことを無視、だあ!? 俺が行ってぶん殴ってやるッ!」
 相原は拳を振り上げた。ヒカルは驚いて相原に言った。
「な、殴っちゃダメよ! それに相手は女の子だもの」
 すると相原はぐっと堪えて言った。
「そうか……女同士は殴らないんだな……そりゃ、ストレスも溜まるよな」
 と。すると妙にヒカルは納得した。そうか、私達は殴り合わないからストレスが溜まるのかと。放課後から感じていたお腹に鉛が溜まったような妙な感覚の正体はストレスだったのだ。
「ヒカルさんの西校と違って北は頭悪いからさ、心理戦とか一切できねえんだ。頭に来たら殴るし、勝負は力で決まるから悪いのはケンカが弱いヤツってことになるんだ。だけどそれは実力の話だから誰も文句は言わねえ。負けたヤツは自分の腕を磨くか、強いヤツと顔会わさねえように逃げるかのどっちかだ。俺は、ケンカが弱いから本当は総長になんてなれる器じゃないんだが、絶対殴られるのが嫌だという気持ちだけは負けねえって思ってた。そうしたら、北校の総長になってたんだ……」
 するとヒカルは驚いて言った。
「あ、相原さんって北校の総長だったの……? っていうか、総長って番長みたいなもの? そういうのってまだあるんだ……」
「えっ、知らなかったっけ……」
 ヒカルは、この間会った時は泣き面でヒカルと一緒に暗い夜の校舎から脱出しようとジタバタしていた相原がまさか北校の総長だとは思えなかった。そういえば、最終的に脱出できたのは相原の蹴りによって一撃で鍵のかかったドアが壊されたせいだと思い出した。
「この間は、ユージが……俺の舎弟が君をさらってしまって、本当に悪かった。」
「ううん。どうなることかと思ったけど、何もされなかったし。」
「ヒカルさんのことを苦しめるヤツがいたら、俺はいつでも行って殴ってやるから。いつでも俺を、呼んでくれ」
 照れながら下を向いてつぶやく相原が、何故か可愛らしく見えた。この人といると、自分が年上のような錯覚を覚えてしまう。ヒカルは道場があるせいで滅多に友達を入れない家に相原を入れた。北校と西校の違いの中に、今回の事件を解決させるヒントが隠されているような気がして、もう少し話を聞きたくなったのだ。相原は、初めて入る女の子の部屋に、胸が痛くなりすぎてしゃがみ込んでしまった。以前からこんな相原の姿を見たことのあるヒカルは、相原のことを「体の弱い人」だと思っていた。
「だ、大丈夫?」
「くぅ……だい、じょうぶだ……」
 ヒカルの部屋からはヒカルの匂いがした。相原は全ての思いが自分からこぼれ落ちてヒカルの部屋に巻き込まれ、自分が消えてなくなりそうだと感じた。ヒカルの部屋にはベッドがない。それが唯一相原を落ち着かせてくれる要因だった。ここでベッドなどを見てしまった日には、間違いなく自分は理性を失うと相原は確信していた。
 未だに布団で寝起きするヒカルは折りたたみの丸いテーブルを広げ森永のココアを淹れて出すと、相原に座布団を勧めた。ヒカルが推察するに、「思い」は「形」を取りたがる。
 もしもヒカルに起こったことが北校で起こったことならば、瀬ノ尾アイラの書き込みに頭に来たら、気が済むまで殴ればいいのだ。だけど冴馬はその行動を取らない。暴力が暴力を生むことを知っているから。まるでアイラの気が済むまで好きにさせようとしているみたいだ。しかし、彼女の気が済むまでというのは一体、いつまでのことを言うのだろう。
 三年生の彼女が学校をやめるまでなら、あと数ヶ月というところだが、その数ヶ月を無駄に苦しむ必要があるのかどうかをヒカルは疑問に思っている。それに始まってしまったイジメは彼女の卒業で収束するとは思えない。
「ねえ、相原さん。人を苦しめたい気持ちって、どうして起こるのかしら?」
「ええっ!? そ、そうだなあ……ケンカでぼこりたいっていうのは、うちのユージの場合は楽しいからやってるみたいに見えるけど、普通は復讐心からかな……。」
「誰への?」
「ええっ、誰への!?」
 ヒカルは「誰への?」という問いが自分に跳ね返ってくるのを感じた。そしてふいに、朝に冴馬が言った「ヒカルさんはよく育てられましたね」という言葉を思い出した。
「ご両親への……復讐のために彼女は、私達に刃を向けるのね、きっと……。どうして自分の両親に向かわずに、違うところにエネルギーを向けるのかしら。」
「……それは、そいつにだけは嫌われたくねえからじゃねえかな……。俺ンところのユージはさ、義理の両親にすっげー大切に育てられたんだ。俺んちはユージんちの隣で、昔っからユージんちの義理のお袋見てるけど、本当にいい人なんだ。だけど小さい頃の記憶ってなかなか消せねえみてえでさ、未だに本当の親が許せねえって言うんだよな。
 本当は、本当の親の方に大事にされたかったんだろうって思うよ。なんで俺を捨てたんだって、本当の親を殴りたい気持ちは、本当の親に甘えたい気持ちと同じなのかもしれねえし。だけど、殴れねえし甘えもできねえんだ。そりゃ、辛いよな……。アイツ見てると時折、そう思うことがある。まあ、言わねえけど。」
 相原はあぐらをかいていた自分の足を見つめた。白い靴下に灰色に浮かんだ汚れがアイボリー色の絨毯を敷いたヒカルの部屋にそぐわないような気がして、途端に恥ずかしくなって居住まいを正した。
「相原さん……色々教えてくれて、ありがとう。」
 ヒカルは素直にそう言った。その唇の動きを見ていた相原は上体をかがめ、そっとヒカルの唇に自分の唇を重ねていた……。一ヶ月間ローソンに通い続け、募りに募った思いが、無意識に漏れ出していたのだ。キスしたのか、していないのかわからないくらいにそっと触れ、気付くとヒカルの顔が目の前にあった。その時、鈍感なヒカルも、相原が自分のことを好きでいることを知ってしまった。学生服のシャツから覗く相原の鎖骨のラインが随分と美しいことにも気付いてしまった。肩幅が広い。そして初めてヒカルは、相原の匂いというものを意識した。
 その匂いは長らく部屋に守護神のようにハンガーに掛けられていた刺繍入りの学生服と同じ匂いがした。触れぬか触れないかのキスだったが、初めてキスをしたヒカルは軽く脳がトランスするのを感じた。何かとても大切なものを受け取ったような気もした。そして目を開ける頃には、「今のなし……」という気持ちが湧き上がってきたのだった。
「相原さん、帰ろう! コレ、上着。ありがとうまたねっ!」
 ヒカルは上着をハンガーからぶん取り、相原に押しつけるようにして部屋から相原を追い出した。
「……ごめん、ヒカルさん!」
 相原の声が部屋の外から聞こえた。小さい声で「ヒカルさん……俺、ヒカルさんのことが好きだ」とも聞こえた。ヒカルは、どうしていいのかわからなかった。ただキスをした感触だけが残った。冴馬じゃない人とキスをしてしまったという後悔と、かけがえのないような甘い感触が。
 
第13回「オーディエンス」
最終回「神様の言う通り」
 
ダーリンはブッダ 目次
 

ダーリンはブッダ 第13回 オーディエンス

イラスト/ナカエカナコ             
 
ダーリンはブッダ 第13回 オーディエンス
               
 瀬ノ尾愛羅の作ったサイトは愛羅の巧妙な語り口によって、まるで劇場のようになっていた。読んでいるうちに読者は愛羅以上に愛羅の気持ちになってゆき、愛羅の正しいとするものを良しとして、愛羅の許せないものを一緒に許せなくなっていった。そして、愛羅が編集する世界を本当の世界だと気付かぬうちに思い込むようになってゆく。
 愛羅は心を込めて小さなイジメを加え続けた春日の禍々しさを断罪し、その両親が教師をしていることに憤りを表す……。自分の子どもをイジメをする人間に育てた教師が、教壇で人に教えるなどということがあっていいのでしょうか……と、深刻に書いている割に絵文字を多用していて、余裕が見て取れる。サイトの読者層というものをよく理解していて、絵文字を使うことでキャッチーなわかりやすさを加えているのだ。
 東京でイジメ事件による自殺者が出て世間を騒がせると、愛羅のサイトは「イジメ」をキーワードに検索され急速に読者数を増やしていった。コメント欄には60件を超えるメッセージが書き込まれ、読者は愛羅の考えに同調していった。しかし、どんなに熱い話題であっても同じ話題を続ければ少しずつ読者数も減り、色褪せてくる。そのタイミングを狙って冴馬はこんな書き込みをした。「瀬ノ尾さんなら、これぐらいのことで考えが変わる気がするんだよね」と言って。
 『いつも楽しく読ませて頂いてます☆ でも最近、イジメのことばかりで飽きちゃったかも☆ アイラさんの学校ってどんな学校なんですか? 部活のこととか教えてください。(^−^)p』
 と……。 
 瀬ノ尾愛羅は、ノート型のパソコンの画面を見つめながら呟いた。
「もうマスコミに上らないイジメ事件の真相っていうのも、旬を過ぎた感じよね……これを読んだ読者も友愛会にだいぶ入会したし、そろそろ違う切り口で読者の幅を広げなきゃだわ……そうだわ。あの拒食症の女を救えない仏教部ってどうかしら? なぜ仏教を掲げた部活動に拒食症の女性が……? とか。いいわね。」
 愛羅はティーカップに注いだ琥珀色の熱い紅茶を口に含んだ。プリンス・オブ・ウェールズの豊かな香りが立ち上っている。
「この記事、画像がないと弱いわねえ……拒食症の人の画像を使いたいところだけど、無断で使ったら訴えられるかしら? まあ、高校生の私が使う分には問題ないわよね。大人だったら画像の使用で訴えられるかもしれないけど、私はまだ高校生だもの。わからなかったで済むと思うわ。」
 
 もっともっと、刺激的な記事を書かないと読者はついてこない。その凄惨な記事の間に清涼剤として友愛会の奉仕活動が加わるから、自分の行う素晴らしい活動が映えるのだと愛羅は思っている。
 学校内のことが思うように動く時、彼女は快感を感じる。受験はもう私立の推薦入試が決まってある。派手に改造した制服を着て校内を走り回っていた二年の女生徒が、いじめられる側に回った時、そうなるようにと手を回した愛羅としては、思い描いたようにその二年生の人生が落ちぶれていくのを見ると、なんて面白いショーなのだろうかと思う。
 ほんの少し悪い噂を流せば、次第に人はそれを信じて距離を置き、やがて周りに誰もいなくなっていく。その女生徒は今、友愛会でよく働いている。性格はすっかり変わって、いつもびくびくしながら愛羅の言うことをよく聞き、愛羅に従うようになった。「私が守ってあげる」と愛羅が勧誘したのだ。救うのも、落とすのも自分次第なのだ。
 仏教部の剛玉冴馬には、圧倒的な女子のファンがついていることを愛羅も知っていた。教師も冴馬には何も言わずに、やりたい放題にさせているのが気に入らなかった。
(あんな部活の一年生が私に向かって意見するだなんて、生意気だわ……。)
 愛羅はしばらくの間、思案した。そして、どうしたらあの仏教部の連中が自分の会の前に跪くのかを練りに練って考えた。
「とにかく、あの方達には人生の底を見てもらわないといけないわ。地獄のような場所に落として、救い伸べる手にしがみつかせてみせる。人って意外と、簡単なのよ……」
 愛羅の表情には悪意が満ちていたが、鏡に映った自分の顔は彼女にとってはとびっきりの笑顔にしか見えなかった。
 
 「先日、西校では有名な仏教部の皆さんの部室を訪れました。(ハート)一体どんな活動をされているんだろうとワクワク! していたアイラは驚いてしまいました。みんな、学校内でココアなんか飲んでおしゃべりばかりして、ろくに活動もしていないだなんて……アイラはショックを受けてしまいました。こんなことでは、少ない部室を奪い取られたおてもと研究会の皆さんが可哀相……それに、どうしてこの部の方達はお友達が摂食障害なのにそれを見て見ぬふりするのでしょう……。
 私は、なんだか耐えられなくて、部室を飛び出してしまいました☆ 人が苦しい目に遭っている時、それを見て見ぬふりをするのは罪ではないのでしょうか? 
 私にはわかりません。そして自分の酷さを自覚できない方々に、私の友愛会への活動に参加しませんかって勇気を出して言ってみたんです! だけど……断られちゃった。
 今となっては、可哀相なあの摂食障害の女の子が、無事に元の体重に戻れることを祈るばかりです☆ 
 がんばって! 苦しいときも、私はあなたを応援しているよ。☆瀬ノ尾アイラ☆」
 
 その文章には、ガリ子とは関係のない体重25キロの摂食障害の女性の画像が貼り付けられてあった……。見ようによってはガリ子に見えなくもないのだけど、毎日顔を合わせている私に言わせれば似ても似つかない人だった。その写真には、「神さま、彼女に普通の日々が訪れますように☆」というメッセージまで添えられていた……。
 投稿すると愛羅の思い通りの反響があり、「これは酷すぎる」「なんで病院に連れて行ってあげないの!?」とコメント欄は湧きに湧いた。
 その記事が書き込まれた翌日、仏教部の部室が開かなくなった。朝、授業が始まる前にヒカルが部室に寄ると、明らかに外側から蹴られた形で引き戸が歪んでおり、そのドアはレールから外れておかしくなっていた。
「これって……」
 ヒカルが不気味なものを見る目でその歪められたドアを見ていると、冴馬が来て言った。
「おや、まあ。壊されましたか。」
「冴馬……! おやまあって何をのんきに言っているの!? 早く壊した人を探さなきゃ……」
 すると冴馬は何事もなかったようにそのドアを外し、部室の中に入れると代わりに中から暖簾を持ってきて入り口に下げた。その暖簾には「蕎麦」と漢字で書かれてあった。
 
「そ……そば!?」
「こんなこともあるかと思って、もらったのものを捨てないで取っておいたんです。やはり、暖簾の方が部屋に入りやすい雰囲気が出ますね。」
「冴馬……これってきっと、アイラ先輩の昨日の記事を本気にして、私達を敵みたいに見ている人が現れたってことじゃない? 大丈夫なの……?」
 すると冴馬はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。何故と考えれば、大丈夫です。きっと、このドアを蹴った方はすごく、褒められたかった。愛羅さんが悪いと言っていたから、悪い奴には俺が制裁を加えよう……と、正義の心で蹴飛ばしたんですよ。」
「そんな……! アイラ先輩の勝手な解釈であんな酷いインチキ記事書かれたのに……」
「ヒカルさん。」
 冴馬は一言いうと、私の頭にポンと手を置いた。
「あなたは、自分の目で見て、考えたことしか信じないでしょう? だけど、そんな人は滅多にいないんです。自分の目で見て、自分の頭で考えるから、他の人と同調できない。
 他人の行う無自覚のイジメを見過ごせない……それで悩んだりもされるでしょうが、皆さん本当に自分の心と体を使うのが怖いんです。体がバラバラになってしまうように感じているんですよ。だから、雰囲気だけで物事を察しようとするんです。こうすれば褒められるだろう、こうすれば怒られるだろうと……。でもそれは、そういう風に育てられてしまったのだから仕方ありません。たくさん褒められて育った子は、先回りをして褒めてもらおうなんてことはしません。ヒカルさんは、よく育てられましたね。」
 
 朝っぱらから冴馬に「よく育てられた」と褒められて、私は顔が赤くなった。
「ヒカルさん、今日一日、色々とあるかもしれませんが。その人の背景をよく見れば、何も怒る必要もないことだとわかります。みんな、やっぱりこの歳になっても……いいえこの先大人になってもずっと、取り戻そうとしてしまうんですよ……しっかりと他人に愛されない限りには……。」
 その言葉を聞いて、私は少し遠慮しながら冴馬に言った。
「……冴馬は、……ちゃんと愛してもらえた?」
 私は冴馬に両親がいないのを気にしながら、恐る恐るつぶやいた。冴馬は、少し寂しげで、どこか懐かしい表情をして言った。
「はい。しっかりと、愛してもらえましたよ。」
 
 教室に入ると、明らかに昨日までと違う雰囲気を感じた。みんな、昨日よりもよそよそしい。私が入ってきた途端におしゃべりがぴたりと止み、ひそひそと話し始められるというのは思ったよりも辛いものだなあと感じた。だけど、こうなることをある程度予想していた私はそんなにダメージを受けなかった。だって、こういうことってよくあることだもの。クラスのみんなは「あの人を嫌え」という病原菌に感染した感染者で、いつ感染したのかどうやったらこの病気が治るのか、自分の病気を治す方法すら知らないのだ。
 あの病気には私も中学の時によく感染した。感染している人も案外と辛いのだ……これまでよりも注意深く人の目を気にしなきゃいけなくなるから。
 
 その中でイジメに発展していくとある程度みんなが安心するのは、どうしたらいいのかわからない状況から「こうしたらいいとわかる状況」に変異するからだと思う。そうなってしまったらいじめられっ子は「あの人はいじめられて当然の存在」と変異する。そして数人のいじめる人、それを黙って見守る人、笑いながら見る人に教室内が色分けされる。だけど力関係というものを常に子どもは意識しているから、ある時にいじめっ子は二位の実力を持った人に権力を奪われて今の春日先輩みたいになったりする。
 私は後ろの席のガリ子に声をかけるとガリ子は口元を両手で隠し、「ヒカルさん聞いて」と言った。その口元が、何かとてもいいことがあったかのように喜びに溢れている。きっと私が教室に入った途端に変わった空気のことなんか気にも留めていないのだろう。
 
「ヒカルさん、あたし、カルシウム摂ることに決めたの。」
「わっ珍しい……どうしたの? 錠剤で摂るの? 錠剤のカロリーまで気にしていたアンタにしてはすごい発言だわ。」
 私達は小声で会話した。ガリ子は私の耳に手を当てて、ひそひそと続きを話し始めた。
(それがね……昨日気付いたんだけど高橋君、私の赤ちゃんが欲しいみたいなのよね。)
(あ……赤ちゃん!?)
 私はブホッと息を吐き出してしまった。
(だって高橋君、私に3キロ太って欲しいって言ったのよ? 3キロっていったら、3千グラムよ。新生児一人分の体重を増やして欲しいって、ようはあたしに産んで欲しいってことなんじゃないかしら? それに、高橋君なりに今の私の体を心配してくれているんだと思うの。だって、このままもし高橋君とHなことをしたら私、肋骨が折れるどころの話じゃないと思うのよ……)
 ガリ子の話を聞いて私は、教室のことなどすっかりと忘れてヒイヒイと腹の底から笑ってしまった。ああ、ガリ子と友達になれてよかった。どうして今までガリ子を無視してきてしまったのだろうか。こんなにおかしな友達なのに。ガリ子はどうして、こんなにガリガリなのに愛しいのだろう……。
 
(がんばりなよ、3千グラム。どうせ産んだらそれぐらい減るんだからさ。)
(そうよね。あたし、二人になるのよ。これって不思議なことね。裕子ちゃんも応援してくれるって。)
 デブ子はまだ学校には来ていないけど、デブ子とガリ子と私は、急速に仲が良くなっていった。デブ子のマンションの匂いがひどいものだったのが忘れがたく、北校の事件の後に私は己の鼻を信じて、デブ子のマンションの饐えた匂いを発している元を突き止めに行ったのだ。それは洗っていない靴下だったり、カビの生えたミカンだったりしたのだけれど。どうしても散らかった部屋を片付けなきゃ気が済まない私は鬼のようにデブ子のマンションを掃除して、太って浴槽に入れなくなったデブ子と、拒食症のガリ子と一緒に銭湯に行った。
 平日の夕方の銭湯で、その時間は私達を入れて6人しかお客さんはいなかった。おばあちゃん達の視線を私達は独占したが、女の子同士でお風呂に入るのは中学の修学旅行以来だったし、熱いお湯がデブ子を変えていくようだった。デブ子のマンションでご飯を作って一緒に食べたり、まるで初めての友達ができたみたいに私達は仲良くなった。
 だけど流石にデブ子のことを本人の前でデブ子とは呼べなかった。ガリ子と違って繊細なのだ。デブ子は今、冴馬のことが好きだという。その気持ちは私にもよくわかる。
「だけど、この間私に向かって『よく噛んで食べろ』って言った北校の人のことも忘れられないの。あれ以来、ロールケーキも噛んで食べるようになったの……。私、どうしちゃったのかな……。」
 その時私は北校の相原さんと一緒に校舎の中に閉じ込められていたんだけど、そういえば相原さんは、今頃どうしているのだろうとふと考えがよぎった。彼のものすごい刺繍の入った学生服は、私の部屋のハンガーにかけてある。不思議と、その学生服を朝晩見ているうちに、相原さんのことが他人と思えなくなって来たのが私には不思議だった。
 
 次の日の放課後、体育館の掃除をしに行くと、いつも並んでモップをかけていた5人の女子が、私とは決して一緒にモップをかけてくれないことに気がついた。いつも全員が並んでモップがけをするのに、私が合わせていこうとすると黙ってすごいスピードで行ってしまうのだ。みんな一言も口をきかずに……これには驚いた。
「あれ、みんな、どうしたの?」
 と、少し会話をしようとがんばってみたが、決して口をきいてもらえなかった。昨日まで何の意地悪もしてこなかった普通の女の子達がである。流石に、これには傷ついた。
 冴馬に言えばきっと慰めてくれるけど、心配をかけるのも嫌だったので新しい暖簾をかけた部室には寄らずに帰ることにした。心が薄ら寒く、鞄がやけに重く感じる。久しぶりに、人を怖いと感じた。
 
第12回「人生の先が読めない」
第14回「ベビースターの人」
 
ダーリンはブッダ 目次
 

ダーリンはブッダ 第12回 人生の先が読めない

イラスト/ナカエカナコ             
 
ダーリンはブッダ 第12回 人生の先が読めない
              
 よく見ると、彼は入学当初よく学校行事で見かけた応援団で粋がっていた春日先輩だった。それが、怖いぐらいに脅えて顔色も青く、どこか学生服も薄汚れて見え、今すぐ保健室に連れていかなきゃ死んでしまうのではないかと思えた。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
 声をかけると先輩は青ざめた手に握っていたスマートフォンを取り落とした。冴馬はそれを拾って彼の学生服のポケットに入れると、静かに背中に手を当てて、ゆっくりとさすった。冴馬は静かに、ゆっくりと背中をさすり続けた。すると先輩が泣き出したのだ。
「保健室、行きますか?」
「いや、いい。」
「それじゃ、すぐそこに僕たちの部室があります。そこで、休んでいってくれませんか?」
 冴馬がそう願い出ると春日は静かにそれに応じた。まだ目がうつろでどこか魂が抜けているような、危ない状態だった。先輩を仏教部の部室に連れて行くと、タカハシが驚いて言った。
「春日先輩じゃないッスか。ど、どうしたんスか?」
 タカハシは入学当初、ほんの3日だけ応援団にいたことがある。応援団の練習中に「フ〜、ちょっと休憩していいッスか?」と、あまりにも慣れた手つきで煙草に火を付け、プカプカと吸い出したために西校・応援団を退部になったのだ。
 頭のいい良い子ちゃんが集う西校の中では悪い奴ばかりが集まっていた応援団でも、校庭で人が見ている目の前で煙草を吸う奴なんてのはいなかった。みんな隠れて吸うのはうまかったが、タカハシみたいに普通に「煙草は、うめ〜な〜」などと言って吸う高校生は存在しなかったのだ。ちなみにタカハシが中学時代、咥え煙草で受験勉強をし、晩酌しながら最難関の西校に受かったことは有名である。
 応援団長だった春日は他の団員の手前、一年のタカハシがする無茶苦茶を見過ごすわけにはいかず、やむなくタカハシを退部させた。
 春日は、タカハシの姿を見ると少し懐かしそうにし、ぽろりと涙を浮かべた。そして言った。
「俺は……俺の家族は、もう、殺されるかもしれない……もう、生きていたって何のいいこともない……」
 と……。冴馬は、ただ黙って聞いて、彼の肩に手を当てた。ずいぶんと長い時間が経った気がする。タカハシも何故か春日先輩があまりにも傷ついているのに驚いてか、何も言わなかった。私は黙って部室にあるポットからお湯を注いで森永のココアを淹れた。
 何か、そうした方が良いような気がしたのだ。先輩の前に差し出すと、先輩はぶるぶるとカップに手を触れた。
「……たいしたことのないイタズラだったんだ。ちょっとからかったり、プロレス技をかけたり、水泳の後にパンツを隠したりするうちにそれが楽しくなった。俺の家は両親とも教師をしている家だから、家ん中がクソつまんねくて、それで面白いことねえかと思ってクラスのバカをからかってただけなんだ……。そうしたらそいつが、自殺未遂を起こしたんだ……」
 春日のカップを握る手がまたブルブルと震えだした。
「それでもたいしたことないと思ってたんだ。だけど周りは違った。今までそいつがいじめられるのを笑って見ていた連中まで俺との関わりを急に断とうとして、無視し始めた。
 たった一日で状況が前と180度変わったんだ。自殺未遂でも死ななかったから、マスコミは来なかった。その代わり、そのイジメてた奴が友愛会に入ったんだ。それから、そこの会長やってる瀬ノ尾っていう女がよ、俺がやったことを全部聞き出して、それを全部あいつのコミュニティサイトに書き込み始めたんだ。
 最初のうちは、つまらねえことしやがってぐらにしか考えてなかった。だけどどうやら、あいつのサイト、この学校の6割ぐらいの連中が見ているみたいなんだ……。『どうやったらなくなるの? イジメの問題』とかってタイトル付けやがってよ、それでいて俺のことを実名でそいつに何をしたか克明に書くんだ。『マスコミに載らないこの学校の真実』とかなんとか。それを、ただの個人的な日記であるかのように書いて、俺の両親が教師をやっていることまで書き出した。知っている連中が読めばすぐにわかるような文面で書きやがるんだ。それで、俺の妹が一週間前に、後ろから『卑怯者の妹!』って言われながら道路に突き飛ばされたんだ……。
 何もしていない妹がだ。妹は怖くなって学校に通わなくなった……なんで、俺の妹だって知らない人間に妹の顔、ばれてんだよ……。それでもう、気が狂いそうになってその女のサイトを毎回チェックするようになった。あの女が書き込むとすぐに家族に何か起きるような気がして、それで読むと俺のことが書いてある。コメント欄にそれに同調する書き込みや、同じクラスのヤツが見た俺のもっと非道いイジメが書き込まれていく。読むと心臓を握りつぶされるような気持ちになるけど不安で、読まずにいられねえんだ。もう、ずっと、生きた心地がしねえんだ……」
 その言葉を黙って肩に手を置きながら聞いていた冴馬が言った。
「……ずいぶんと複雑に、絡まってしまったんですね。」
 春日は黙ってうつむき、静かに涙を流した。
「そんな恐ろしいことをする人からは、逃げた方が得策なんですが。先輩の場合は家族まで連れて逃げるわけにはいかないのでしょう? だけどインターネットサイトとて、ただ人が暇つぶしにやっていることです。瀬ノ尾さんの書くことが退屈になったら、人は誰も読まなくなるでしょう。それに瀬ノ尾さんが三日あなたのことを書かなくなったら、人は、あなたのことなんて忘れてしまいますよ。人はそんなには他人に興味を持ち続けられないものです。ただ、あなたを悪だと決めつけることによって、正義の名の下に色々なことができるとつい、卑しさを出してしまう人もいるかもしれませんね……」
「あの愛羅って女だったら止めろ言うても聞かんのやろうなあ。先輩、面と向かってやめれ言うてやったんスか?」
「言おうとした……そうしたら友愛会の連中に8人がかりでボコボコにされたんだ。俺がイジメてた奴が、俺のことを靴で楽しそうに何度も蹴飛ばして来たよ。あの会は、強い連中はいないけど60人くらいの会員がいるんだ……あれだけの人数で集団でやられたら……太刀打ちできない。校外の活動をしているヤツも含めたら何人いるかわかりゃしない……。商店街を通る時に誰もがあの女の手がかかっている人間に見える。もう、胃が、石でできているみたいに硬くなってしまった……」
「なんで、商店街でボランティアするような人達が、たった一人の人のことを蹴飛ばしたりするのかしら……。」
 すると冴馬が言った。
「自分を、絶対の正義だと信じた時、自分の反対側の意見は許し難い悪になってしまうんだ。『悪を倒す』は人が最も興奮する物語だからね。瀬ノ尾さんはその辺の人の意識をうまく利用して書き込みを行っているんだろうね。そして読んだみんなは正義に燃えて我を忘れてしまうんだよ、きっと。」
 冴馬は先輩の肩に当てていた手を、そっと顔に触れさせた。心無しか、冴馬が手を当てていたところだけ先輩の生気が戻ったように見える。先輩が両の手で顔を抑えて言った。
「俺は、どうしたらいいんだ……?」
「……もしも、この学校内でまた先輩に危害が加わるようなら、この部室に逃げ込んで来てください。ここは、あなたの避難場所です。あと、ヒカルさん……」
「な、何? 冴馬。」
「もしかすると、この仏教部に身を置くことによって、ヒカルさんに迷惑がかかるかもしれない。だけど、多分ここにいれば、人の本当の姿を見ることができるんだ。1ヶ月だけ、
僕に賭けてくれないかな?」
 私は冴馬がこの先輩のために、何かをしようとしているのだと気が付いた。最初から教室で無視されていたガリ子に声をかけたり、ガリ子を仏教部に勧誘したり。冴馬って、そういう人なのだ。まあ、この先輩に関わったら、確かに何か悪いことが起こりそうな予感はする。
「……いいわよ、冴馬。私には、少ないけどもすごい友達がいるもの。」
「……ありがとう。」
 冴馬はにこっと笑って言った。
「しょせんイジメもロジスティクスです。発生源があって需要がある場所に供給されてゆくもの。どこに何が供給されていくかの因子を突き止めれば、解決のいく問題だと思う。大元は友愛会だそうですが、友愛会から発信される情報を変える方法はあるはず。そこに、僕は切り込んでいこうと思う。」
「おお〜、戦争やのう!」
 タカハシが嬉しそうに椅子を揺らした。私はできることならいざこざには巻き込まれたくなかったが、冴馬の言う『人の本当の姿』というものに興味を持ち始めちゃったのだから、仕方がない。冴馬は、私が何も悟れないご近所宗教の娘だっていうことを知っているのだろうか? 人のことが何もわからないから、余計に私は知りたくなるのだ。
 
   思いはどこから
  
 ガリ子は部室を飛び出した後、タカハシが追いかけて来なかったのでショックを受けてバスに飛び乗り、デブ子の家に向かっていた。ガリ子はバスに乗るとき、ステップの段差で股関節を外しそうになる。慎重に慎重にとバスに乗り込むと、乗るのに時間がかかったためか、久しぶりに感じる嫌な視線を身に浴びた。
(これだからバスって嫌なのよね。ママの言うとおりにタクシーに乗れば良かった。人のエゴには超うるさいくせに自分のエゴは可愛いとか思ってる集団が乗っているんだもの。どんなエゴだって可愛いって事をわからせてやりたいわ……)
「3千グラム……」
 ガリ子は思わず声に出して言った。
(新生児一人分の重さを増やせだなんて、どういうことなのかしら……ひょっとして高橋君、私の、赤ちゃんが欲しいのかしら……?)
 そう思った途端、ガリ子は何やら晴れやかな思いが胸に宿るのを感じた。バスの広い窓から陽光が差し込んでガリ子を照らし、頬が薔薇色に染まった。空は驚くほどに青かった。
(そうね、赤ちゃんを作るんだったら、もう少し体重を付けてもいいのかもしれないわね。どうせ産んだら出て行った分3千グラム減るんだし。胎盤も出て行ったらもう何キロか痩せるのかもしれないわ。ああ、高橋君がそこまで考えてくれていたなんて……! 私だったら臨月の妊婦の状態で、ヒカルさんぐらいのウエストでいられるわ。どうしよう、ヒカルさんと裕子ちゃんに相談しなくっちゃ。)
 ガリ子は薄っぺらい自分のウエストを見て、生まれたばかりの赤ちゃんを想像していた。
(そういえば生理は止まっているけど、3キロぐらい太れば元に戻るのかしら? そういえば生理が止まったのって40キロを切った辺りだったわ……それじゃあ、もっと太らなきゃダメっていうこと? まさかタカハシ君ったら、私がまだ相談していない生理のことまで心配して……?)
「でも、私と高橋君の子どもだったら、可愛いこと間違い無しだわ。」
 ガリ子はタカハシのことを考えるだけで幸せだった。目をつぶると改造した学ランの太い腕を自分の左側に想像できる。タカハシのことだったら髪の生え際の、赤く染まる前の黒髪でさえ愛せるような気がした。悲しいほどつまらない学校生活を送っていたガリ子にとって、自分が興味を持てる存在がいるというのは不思議なほどに刺激ある出来事だった。そして夢中になっているうちに、少し自分への興味が薄れているのに気がついた。カロリーを計算する時間が減って、タカハシの顔ばかり思い出している。
(高橋君、いつも赤い靴下を履いているから、きっと赤が好きなのね。来月はクリスマスだもの。赤いマフラーを編んでプレゼントしようかしら。それとも、赤い髪が目立つようにマフラーは赤が映える色にしたらいいのかしら……)
 冬の青空はガリ子に祝福を与えている。ガリ子は青空が自分に語りかけてくるのを感じた。透明な雲の向こうからメッセージが伝わってくる。
 よく気付いたね。良かったね。本当に良かった……と。
 
 その頃、冴馬は春日先輩を三年の玄関まで送り届けていた。送り出すときに一言、「この携帯を見ても事態は変わりません。」と言った。
「もっと言ってしまえば、この中には瀬ノ尾さんの作った桃太郎とか浦島太郎のお話が入っているだけです。物語を聞いた人が亀をいじめたと言って、現実と非現実の境目を失って悪さをするかもしれませんが、その物語も長く続けば効力を失います。人は必ず飽きるんです。きっと、明日にでも。」
 春日は力弱く頷くと、人気のない中庭を見てホッとして家路を急いだ。冴馬はそれを静かに見守っていた……。
「……それじゃあ、ロジスティクスの説明をするね。」
 冴馬は部室に戻ると白い紙を広げ、何やら説明を始めた。
「ロジスティクスは、ようは供給ルートなんだ。もしもヒカルさんが学校に来る途中、消しゴムを欲しいと思った時にはコンビニと百均と文房具店という購入手段があるわけだけど、この辺で一番買いやすいのはどこの消しゴムだと思う?」
「この辺だったら……ローソンかな? 文房具屋さん、遠いし。」
「そう。さほど遠くなくて値段も高すぎない。近い場所のものを僕らは選ぶ。ローソンの消しゴムは中央から搬送されてくる。搬送ルートを断てば、僕らはローソンで消しゴムを買うことができなくなるのでやむなく文房具店まで行く。百均はもっと遠いからね。
 これを瀬ノ尾さんの無自覚なイジメに置き換えると、供給源は瀬ノ尾さんのパソコンで、ルートはネットの情報サイト、受け取るのは端末を持った読者である60パーセントの学校の生徒達やその他の人達……。それのどこかを断てば、春日先輩への報復は弱まると思うんだ。だけどその供給源を断つ方法は、瀬ノ尾さんのパソコンを壊すか、書き込みができなくなるほど忙しくさせるか……、興味を他の対象に移し替えるしかないと思う。
 瀬ノ尾さんのパソコンを壊すと器物損壊の罪になるからこれは却下だ。パソコンがなくても端末から書き込めるだろうし。だとしたら、サイトで扱う商品を替えるまでだよ。消しゴムが欲しい人に、ノートを薦めてみるんだ。読者だって本当に消しゴムが欲しかったかどうかなんてわからないわけだし。」
 冴馬は紙に「消しゴム=春日先輩のイジメ問題」→「ノート=違う問題」と書き込んだ。
「そこで、思ったんだけど。僕が目立って瀬ノ尾さんの興味を引けば、イジメの対象は僕に変わるのではなかろうか?」
 冴馬はあまりにも普通にそう言った。
「ちょ、ちょっと! そんなことをしたら冴馬の方が陰険なイジメの被害者になって非道い目に遭わされるわよ! それに春日先輩だって自分でいじめてた相手に報復されているわけだもの、自業自得じゃない?」
「うん。たとえ自業自得でも、あの人はこれ以上ないくらい弱っていたんだし、痛みを知れば人を傷つけることはなくなるし、もう許されていいと思うんだ。それに、天罰は天が下す物であって、人が下すものではないと思うよ。」
「だからって冴馬があんな目に遭ったらどうするの!?」
「さっき言ったように、大体の人は近ければ安い百均よりもローソンへ行くよね。近いっていうのは少し危ないことなんだ。他の条件が空ろになって分けて考えられなくなるからね。脳の中の事象であっても、自分の身に遠いことよりも近いことを本気で考えてしまうでしょう? 『自分』というものは、自分に一番近いからそれを狙われた春日先輩は少しおかしくなってしまったんだ。だけどその上で身の安全を守る方法もあるんだよ。自分を、最も遠い場所だと……他人であると考えると、自分が狙われても平静でいられる。」
「ハイイ!?」
「ああ、ごめん。色々と話がごちゃまぜになった……。ようは、僕は自分がどうなってもそんなに気にはならないんだ。」
(気にならないって……)
「……ただ、」
 冴馬はうつむきながらヒカルに言った。
「ヒカルさんが同じ仏教部の部員ということで、巻き込まれてほしくはないんだ。僕は、自分のことは他人に思えるけど、ヒカルさんのことは、他人とは思えないから……」
 私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。他人に思えないって、どういうことなんだろう……? 冴馬は、一緒に歩いた北校からの帰り道ことを、まだ、覚えてくれているのだろうか。私はいつでもあの日の満月のことを考えている。月が満ちてくると冴馬のことを考えてしまう。冴馬は……?
「面倒くさいのう。友愛会ってヤツをボコボコにすればいいだけの話じゃないんけ?」
 タカハシが言った。
「それでは友愛会がやっていることと同じになってしまうからね。ただ、こういうことは気になるか、気にならないかで決めていいと思うんだ。僕はさっき、春日先輩とネットとの関係に興味を持ってしまったから、もう関わってしまっているのだと思う。だとしたらこれは、僕の問題なんだよ。僕は、気になるということを大切にしたい。高橋君とも、気になったからこうして一緒にいられるんだしね。」
 冴馬は邪気のない笑顔で言った。タカハシは「ばかやろう……」と照れた。私はこれから起こることについて何の見通しも立てていなかった。自分が大変な目に遭うとも知らずに……。帰り道、タカハシがガリ子を探しに行き、私と冴馬は二人きりになって歩いて帰った。恋人ではないけれど、一緒に歩いていられる今の距離が、嬉しい。月はまだ半月で、冬の夜空に星がきれいだった。帰る途中にパチンコ店の前を通ると、そのネオンが群青色の闇に浮かんで驚くほどにきれいでびっくりした。
(クリスマスのネオンみたい……ただのパチンコ屋さんなのに……。)
 冴馬のことを好きになってから、色々なものが美しく見える。風が吹いて落葉した桜の木が揺らいでいる。その枝の間から星が見える……。きれいすぎて、時折悲しくなるくらい。
「ヒカルさん、僕にとっては学校生活っていうのは特別に思えないものなんだ。学校では瞑想している時間の方が長い。それよりも、この学校に居づらくなってしまった人が、少しでも安心できる場所を作りたいと思っているんだ。僕は、みんなといるとすごく落ち着くから……」
「そうだね。」
 冴馬が普通のことを私に語りかけてくれるのが嬉しい。できるだけ、近くにいて、冴馬が動く度に秘かに聞こえる衣擦れの音を聞きたい。隣にいると暖かく感じるいつもの冴馬の匂いを嗅ぎたい。できることなら、冴馬と一緒に見ているもの全てを、ずっと覚えていたい……。

 

第11回「冬の訪れ」
第13回「オーディエンス」
 
ダーリンはブッダ 目次
 

ダーリンはブッダ 第11回 冬の訪れ

イラスト/ナカエカナコ             
      
ダーリンはブッダ 第11回 冬の訪れ
 
 銀杏の木が紅葉して黄金色に輝いている。落葉で地面が黄色く染められると、少しだけいつもと違った世界を歩いているように思う。白いコートに紺色のマフラーを巻いたヒカルが真っ白な息を吐くと、駆け足で冬がやってきそうだった。
 ヒカルは寒いけれども冬が好きだ。顔に吹き付ける冷たい風、雲が絶え間なく形を変え、薄くスカイ・ブルーの空に模様を描くところ。その模様が鳳凰やドラゴン、様々なものに形を変え、何かを知らせようとするところ、制服の上に自分を守るようにコートやマフラーを重ねていくこと。それのどれもが好きだった。
 人っていつでもやらなきゃいけないことがあって、色々なものに巻き込まれて、時間がなくてぐちゃぐちゃになってしまうものだと思う。だけど、冬の間だけそんなぐちゃぐちゃを忘れて、ただ寒いなあ……ということに意識を集中できそうな気がした。
 冴馬はそういう、冬の持つ特性に似ていた。冴馬といると私は、自分の混乱や日常のぐちゃぐちゃを、吸い取られていくような気持ちになる。きっとそれは彼の先生から受け継いだ、すばらしい特性なのだ。
 
 北校のヤンキーと仏教部との決戦があった日から数えて、一ヶ月が経った。
 うちの仏教部が5人の部員を集め、おてもと研究会から部室を勝ち取ったという噂は瞬く間に西校の噂になった。
 私がその仏教部に入ったということも西校中に知れ渡ってしまい、ひそひそと噂されどことなく教室にいずらくはなったのだが北校での事件以来、私の周りにはいつも冴馬とガリ子がいた。
 ガリ子と冴馬は似ていると思う。周りの空気を一切読んでいないところとか、我が道を貫き通すところとか。だけど私は教室の女生徒が、今までと明らかに違う目で自分を見ていることに気がついた。その目は、「あーあ」と言っているのだった。
 
「あーあ、あんな部活に入っちゃって……」
「あーあ、ブッダ君の側にいるからっていい気になって……」
「あーあ、あなたの人生、もうダメに決まってるわ。」
 と、そんな「あーあ」を誰もが言葉にせずに発しているように感じる。するとガリ子は言った。
 
「空気っていうのはねえ、読むほどに損なのよ。大概の人は読み過ぎか読み間違えをするから。それぐらいなら読まなきゃいいのよ。言いたいことがあれば口に出して言えばいいんだから。誰でも実際の話、立派なことができるわけじゃないじゃない? だから小さなため息みたいな物を漏らして、少しだけ意地悪をしていい気になったりするのよね。やるべき事がある人は、そんなつまらない空気に影響されたりしないものよ。そんなことより私は27キロ台になるために努力をしなきゃ。高橋君と結婚したらウエストの細い、きれいなウエディングドレス着たいの」
「ガリ子……タカハシにちゃんと聞いた? ひょっとしたら太ってる方が好きかもしれないわよ。」
「あら、ちゃんと聞いたわよ。そしたら高橋君、女と付き合ったことがないからわからないって。けっこう純情よね」
「いや、このレベルまで痩せてたら止めた方が私は親切だと思うよ……」
 
 北校の事件以来、ガリ子のことをあだ名のままガリ子と呼んでいる。冴馬に北校でのガリ子の活躍ぶりを聞いたら、すごくおかしくてもう、細江さんなんて呼べる気がしなくなったのだ。北校のヤンキーの前に自分から出て行って股関節を両方脱臼して、救急車に乗せられて帰るだなんて……なんか、すごすぎる。入院しているガリ子のお見舞いに行き、両足にギプスを巻いたガリ子を見たら私は笑い出してしまった。そうしたら、ガリ子のことをあだ名で呼んでもいいような気がして、「ハイ、ガリ子」と言ってお花を渡すと、ガリ子は「フン、ありがとう」と言って受け取ったのだ。
「あたし、お花好きなのよ。だって、花って美しいんですもの。ピンクのバラの花だなんて、ヒカルさんにしてはやるわね。私、このお花大好きよ。」
 ガリ子は本当のことしか言わないから、私も素直に嬉しくなった。
 「痩せなきゃ痩せなきゃ」とうるさいガリ子だが、この間、私が学校裏のおばあさんが手作りで焼いているお店のタイヤキを買ってきたら、あんこを一粒だけ食べてくれた。「あら、おいしいじゃないの。」と言って、タイヤキ一匹はほとんど残してしまったけど。あんこ一粒でも食べてくれたことが、私には嬉しい。
 そんなガリ子と一緒にいるから余計に教室の女子の私を見る目は厳しくなるんだけど、よく考えたら、あんな意地悪に無視してくる女子と一緒にいたがってた自分の方がおかしかったのかもしれない。大好きだった幼なじみの夏樹も私から少し距離を置くようになったけど、それもまた、過去のことなのだ。寂しいけど、それにすがるともっと寂しくなるということを、私は知っている。
 
 教室の中で目を閉じると、一番真ん中の後ろの席に冴馬がいるのがわかる。小さな冴馬の匂いのかけらが、私の所にまで届くとひどく安心する。冴馬には、まだ好きとは言えていない。だけど、部活が同じだからいつか、言える日がくるんじゃないかな……。そう思っていた矢先だった。
「ちょっと、三年のアイラ様よ。なんで一年の教室に?」
「あれがアイラ様? すっごい綺麗……なんか、女優さんみたい……」
 ウェーブがかった長い髪を揺らして、まるで女神の光臨のようにその人はうちのクラスに現れた。体のラインにメリハリがあって大人っぽい。後ろに親衛隊なのか、二人の二年生を連れて。彼女の優しげな瞳には、目立たないように茶色のアイラインが引かれていた。その綺麗な人が、冴馬の席の前で立ち止まり静かに言うのだった。
「あなたが、剛玉冴馬君かしら? 変わった格好をしているのね。私、三年の瀬ノ尾愛羅と申します。放課後、三階の美術準備室に来て下さらない? お話がありますの。」
 すると冴馬はものすごく普通の顔をして、答えた。
「お話は、ここではできないものですか?」
 アイラはすぐに答えた。
「ここではできないわ。」
「そうですか。放課後は大切な部活があるので、できることなら一階の仏教部の部室までご足労願いたいのですが。」
 こう言うとアイラはたいへんに不興を買ったというような冷たい表情をした。後ろに立っていた二年の女生徒が「アイラ様のお申し出を断るなんて、失礼な!」「誰に向かってそんな口を!」と、時代遅れな怒り方をしている。
 するとアイラは振り返って言った。
「あなた達、こんな小さなことで言葉を荒げてはダメよ。醜い言葉は醜い心を作るものよ。剛玉君……せっかく美味しいお茶を入れてあなたを西校友愛会へご招待しようと思いましたのに。残念ですわ。だけど、とても大切なお話ですの。私、放課後にそちらへ行ってもよろしくてよ。」
 アイラは不敵な笑顔を浮かべて冴馬に言った。冴馬は目を閉じて答えた。
「お待ちしています。」
 
 そのやり取りを遠巻きに見ていた私は小声でガリ子に相談した。
(ええっ、何、どういうこと? 放課後、仏教部の部室にあの人、来るの?)
(一体、何の用かしらね。私、ああいう高慢ちきな人好きじゃないわ。)
(えっ、ガリ子はあの人のこと、綺麗だと思わなかったの……?)
(思わないわよ。私よりもずっと太っているし。何より、あの人の目、意地悪だわ。)
 目が意地悪だった? あんなに優しく聖母様のように見える三年生を、ガリ子は一目で「意地悪女」と判断した。そしてそれは、はずれてはいなかったのだ……。
 
 放課後の仏教部の部室に、アイラは一人で来た。
 部室にはタカハシ、ガリ子、私と冴馬が例の理科室のテーブルを囲んでお茶を飲んでいると、ノックとともにこの部室に非常に不釣り合いな、グラマラスな彼女が扉を開け、中の元写真部の暗室という裏びれた雰囲気に一瞬驚いていた。
「あの、良かったら、座って下さい」
 と、部室の中じゃ一番上等のパイプ椅子を勧めたのだが断られてしまった。アイラは立ったまま話しだした。
「率直に言うわ。私の運営する友愛会はね、学校の内外を問わず友愛の精神に基づいて奉仕活動をするクラブなの。養護ホームの慰問に行ったり、校外の清掃活動とか、チャリティイベントで寄付を集めるためにコンサートを行ったりもするのよ。うちのハンドベル演奏はよく商店街に呼ばれて行くの。この活動を通じて部員を世界の平和と福祉に貢献できるような人格に育成していくのが目的なの。日本全国にこの会があって『友愛の家』っていう名前で活動しているんだけど、この名前は聞いたことぐらいあるわよね?」
 私は最近になって活動の幅を広げてきた宗教法人『友愛の家』のことをすぐに思い出した。悪いイメージはないけどなぜ、宗教団体がそういった良い行いをするのかが一般人の私にはわからない……。うちも宗教法人だけど、世界の平和のためという言葉はうちのおばあちゃんは考えもつかなかったらしく、今までおばあちゃんの口から愛とか平和という言葉は聞いたことがなかった。「最近の信者さんはお金持ってこないでバナナばっかり持ってくる」なんて、おばあちゃんはいつもお金のことばかり言う。
 愛と平和という言葉を一度も使わずに、イタコみたいに小さく活動してきたご近所の宗教の娘である私は、なんだかエリートの宗教を見るような目でその活動を見ていた。ああ、ゴミ掃除してるな……偉いなあ……って。だけどなんで、あんなに大きく宗教団体の名前が入った半纏を着るのかがわからなかった。私だったら、恥ずかしくてあんな半纏、着れないのに。
「うちの活動は海外にも支部があるの。同じ団体同士の海外交流もしているのよ。それでね、剛玉君。私思うんだけど、……同じ学校に二つの宗教はいらないんじゃなくて?」
 冴馬は顔を傾げて優しい目をしながら答えた。
「僕は、仏教の考え方にシンパシーを感じますが、別に仏教徒というわけじゃないんですよ。」
 アイラは笑顔で答えた。
「それなら話は早いわ。あなたが世界の役に立ちたかったら、元から基盤のある私達のクラブに入って一緒にこの世界を良くしていった方が早いと思わない?」
 黙って聞いていたタカハシがテーブルの上にドカッと足を投げ出しながら言った。
「なんやなんや、姉ちゃん。ようするにアンタ、うちをそのなんとか会に吸収合併させよう思ってんのか?」
「……平たく言うとそうなるわ。」
 ヤクザのようなヤンキーのタカハシを恐れることなく、アイラは平然と答えた。まるで、そうなることが当然のように……。
「私は嫌だわ。その話に納得できる要素は一つもないわ。」
 ガリ子が言った。するとアイラはガリ子を見て一瞬息を飲み、大げさに身振りを付けながらこう言ったのだ。
「まあ、まあまあまあ! なんてこと! こんなに可哀相なほど痩せて……ひどいわ! 剛玉君、あなた部員にこんな病気の人がいるのに、なんで病院に連れて行ってあげないの? この人、精神病じゃない!」
 ガリ子が頭に来て「なんですって……」と立ち上がる前に冴馬が立ち上がった。
「瀬ノ尾さん、彼女は病気じゃないです。物事は見方を変えればどんな人でも病気になってしまいますし、どんな人でも同じ人になるんです。多分、あなたは彼女を病院に連れて行くでしょう? そうすると大概の場合は抗うつ剤を飲まされるんです。それは、彼女の望む自然な流れではないような気がする。」
「そうよ! ガリ子はタイヤキのあんこ、一粒食べれたもの。拒食症なんてそのうち治るわよ! それに、この人に抗うつ剤なんかいらないわよ。彼氏がいるんだもの。」
 アイラは信じられないという顔をして、部のメンバーを見渡した。ヤンキーのタカハシ、拒食症のガリ子、理科室のシーツのようなものを年中着ている冴馬に実家が宗教団体の私……。ここにデブ子がいたらもっと文句を言われたかもしれない。
「それでは、私のクラブに入る気は毛頭ないと?」
 アイラは念を押すように言った。冴馬はゆっくりと答えた。
「瀬ノ尾さん、僕は、成り立ちというものを大切にしているんです。」
 
「成り立ち?」
「みんな、何故かわからないけど『こういう自分になった』という成り立ちを持っている。成り立ちは、時間をかけて作られた、一つの要素も欠けてはできなかった自分という性質のことです。瀬ノ尾さんは、正しい方向に一足飛びに行こうとしているけれど、人というものはそのように素早く変われるものではないと思うんです。変わる必要があるかどうかもわからない。もちろん、あなたの会に入って救われる人もいるでしょう。だけど、植物の成長速度が種によって違うように、時間のかかる人がいてもいいんじゃないかと思うんです。僕たちは多分、時間のかかる種族なんです。あなたの会には合わないと思う。」
 するとアイラは冷たい目をして言った。
「……どうやら、交渉決裂のようね。残念だわ。剛玉君だったら、うちの副部長としてお迎えしてもいいかと思っていたけど、あなた達に平和の理念を説いても無駄だったようね。しょせん、ここははみだし者の集まりね。失礼するわ」
 アイラは仏教部のドアをピシャンと閉めて出て行った。
「なんやねん、あいつ。意味がわからんわ。何がしたいんやろ?」
 タカハシがぶっきらぼうに言うと冴馬が答えた。
「人にはね、素晴らしい人間でありたいという欲求があるんだ。素晴らしい人にはなれないから、よりなりたくなるって感じかな。例えばさ、この世は思い通りにならないじゃない? 人は圧倒的に自然に対して無力で、干ばつや災害による飢饉に遭い続けてきた。百年前は飢饉で小さい子どももよく死んだんだ。そういう時に神様というものがいるなら、すがりたくなるよね。願い事を叶えてくれるならよい子になりますと、一生懸命よい子になろうとする。それで、願い事が叶わなかったらどうすると思う?」
「普通、キレるやろ?」
「はずれ。自分が悪いと思ってもっとよい子になろうとするんだ。強い宗教心を持つと願いが叶わないのは自分のせいで、自分という人間が愚かだからいけないんだと思ってさ、より一層の修行を積もうとするんだよ。また神様も人間のそういう習性を利用しようとしているんだ。」
「悪い奴っちゃなあ〜」
「いいや、神様は悪くないよ。ようは神様を名乗って人の解釈を利用する人がいるってことだよ。僕が仏教にシンパシーを感じるのは、最初から人生は苦しみの連続だって言ってるところかな。思い通りにはならないものが人生なんだってわかったらさ、ああ、そうかって思うじゃない?」
「ああそうかって、淡泊なヤツじゃの〜」
「あら、私は思い通りになったわよ。スリムな体も手に入れたし、高橋君も私の彼氏になってくれたもの。」
 そう言うとガリ子はタカハシにツツツ、とすり寄った。
 
「それなんだけどよう」 
 タカハシが言った。そして、ガリ子が次の瞬間、凍り付くのを私は見た。
「お前、あと3キロぐらい太れや? もう少しなんとかせいや。」
 こともなげに言うタカハシに、ガリ子は驚愕に顔を引きつらせながら言った。
「さ……3キロ? 3キロって言ったら、3千グラムよ。……新生児一人分の重さはあるわ。高橋君、私に二人になれって言うの!?」
 「そんなの絶対無理よ」と言って、ガリ子は部室を飛び出していった。そして飛び出した先で三年生の男子にぶつかり、自分からぶつかっておきながら「骨折したらどうするのよ!」とタンカを切って走って行った。
 私はガリ子を追おうとしたけど、ガリ子にぶつかった相手の様子があまりにもおかしいので、部室に戻って冴馬を連れてくることにした。拒食症のガリ子より様子がおかしいって、ただ事じゃないと思ったのだ。
 
第10回「スイトルさん」
第12回「人生の先が読めない」
 
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