ダーリンはブッダ 第7回「ロールケーキ」

イラスト/ナカエカナコ   
 
ダーリンはブッダ 第7回「ロールケーキ」
 
 「食べている間って本当に、ロールケーキの中に入っちゃったみたいになるの。ふわふわの感触にうずもれる感じ。それで、うずもれている間にロールケーキはなくなっているの。」
 デブ子が言った。デブ子は見た目は朝青龍みたいだが、心の中はどこまでも乙女チックで着ている服にもふわふわの白地にピンクのリボン模様が入っている可愛い系である。
 普通の男子ならば、一目で逃げ出すのがデブ子の容姿なのだが、冴馬はそもそも目から入る情報に重きを置いていない。
 
「ケーキ、美味しい?」
「うん。美味しくなきゃ食べない。剛玉君も……食べない?」
「食べると、どうなるのかな?」
「しあわせになるよ。世界で一番、しあわせな気持ちになる。」
「食べていない時は?」
「世界で一番、悲しい気持ち。……ねえ、人はなんで、悲しみをごまかしながら、生きていかなきゃいけないのかしら?」
「……そうだね。生きていてもいいことないのにね。」
 
 するとデブ子は少し目を丸くして言った。
「剛玉君って、珍しい人ね。みんな、生きていればいいことがあるから、食べてばかりいないで外に出なさいって言うのよ。そうね……生きていてもいいことなんかないよね。」
「そこに、気付く人はとても少ないと思うんだよ。みんな生きていればいいことがあると思っているでしょう? それは錯覚なんだ。だけど人は、上手に自分を錯覚に落としてあげることができる。その錯覚の霧の中を楽しそうに生きるんだ。大山さんは、楽しいってどういうことだと思う?」
「楽しい……たのしい? 食べること以外に?」
「うん。食べることは、自分の中で収まることじゃない? お金を持っていれば、ロールケーキは買えるんだから。だけど、外の世界では自分が外の空気にさらされるわけでしょう? それはとても、こわいことだよね。だけど、自分の中で収まることっていうのは、このロールケーキと一緒なんだ。」
「それって?」
「歯ごたえがない。」
「プッ……!」
 
 デブ子はくすくすと笑って言った。
「剛玉君、あたしは、あんまりにも歯ごたえのあることが多かったから、もう、歯ごたえなんて欲しくないんだよ。」
「どんな?」
「うーん……。お母さんが、離婚したのね。私のお母さんはけっこう有名なスタイリストなんだけど、いつも男の人で失敗してるような人なの。そういう、自分の選んだ相手がひどい男だっていうことを見ないように仕事に打ち込むから、よけいにお母さんは家には帰ってこなくなるし、私はお父さんの機嫌を伺いながら暮らしていたの……。うちのお父さんは暴力をふるうような人だったから、離婚して、このマンションに引っ越して来て、全部うまくいくと思っていた矢先に、お母さんに新しい彼氏ができたの。」
「ふーん。」
「そう、別に彼氏ができても問題はないんだけど、その彼氏はちょっとずるい人だった。っていうか、汚い。私はその頃は痩せてたから、お母さんの彼氏と一緒にいるの嫌だった。なんか、べらべらと喋るような人、好きじゃないし。それで、その彼氏は働くこともしないの。そのうちに転がり込んで来て……私は、できるだけ家に帰らないようにしてた。遅くまで外にいて、お母さんが帰る時間まで家に入らなかった。なんだか嫌な予感がして。だけどその日は、たまたま寒かったのよ。寒くて、偶然財布にお金が入っていなくて仕方なく、家に帰ったの。そうしたら酔っ払ったその彼氏が私の部屋に来て、俺はお前の新しいお父さんなのになんで甘えないんだとか、意味のわからないこと言ったかと思ったら急に、私の腕を掴んできたの。」
「……。」
「すっごく、すっごく気持ち悪かった。犯られるって思って必死で抵抗したけど力が出なくて。でも、途中でお母さんが帰ってきたの。そうしたら、その彼氏は何もなかったように、当たり前のような声出して、おかえり−……だって。人って、恐ろしいよね。」
「それ、お母さんには言った?」
「言った。言えばすぐに別れてくれると思って。だけど、お母さんはそんなクズ男を、捨てられなかったの。未遂だったから、大丈夫よね? って聞かれた時、私はもう、何がなんだかわからなくなったよ……。たぶん、お母さんって、男の人がいないとダメな女なんだと思う。だから私のお父さんも相当ひどい暴力男だったけど、16年もがまんして付き合っていたもの。たぶん、その人とも我慢の限界が来るまで付き合うと思う。
 だけど……なんで私が犯されそうになった時に、お母さんにその限界が訪れてくれなかったの? って、今思うとすごく悲しいんだ。私は、どうなってもいいの? それからは、ショックで拒食症になって、ガリガリになったらその彼氏もどん引きしてくれて、何もされなくなったんだけど、今度は反動で過食症になっちゃった。
 お母さんに、ロールケーキが食べたいって言ったら、いつも冷蔵庫にたくさんロールケーキを入れておいてくれるようになったよ。なんだか、子供を黙らせるためにいつもアメ玉をくれるお母さんみたいだよね……。本当は、お母さんの作ったオムライスが食べたいって思うのに、お母さん、仕事が忙しくてその彼氏にご飯食べさせるのが忙しくて、私に構ってくれないんだ……。本当に、食べている間だけは何も考えなくていいもの。今はお母さん、その彼氏と一緒に別のマンションに住んでる。せめて、それだけが私を守るためにしてくれたことかな……。」
「大山さん……大変だったね。」
「うん。これ言うの、二人目。咲子ちゃんにしか、言ったことない。」
「あのさあ、面白いことがあるんだけど。」
「……何?」
 
「人って、ショックで死ぬんじゃないかって思うことあるけど、不思議に生きているんだよね。」
「そう……ね。私も、自殺するんじゃないかと思ったけど、まだ生きてる。」
「それって、なんでかな?」
「えっ……知らない。」
「これはまだ仮説なんだけど、たぶん、第二章がある人は、第一章では死ねないんだよ。」
「……。」
「死んだら、一巻の終わりっていうよね。一巻って、一巻二巻の一巻だと思うんだ。ようするに本の一冊め二冊めのことだよね。ということは、二巻の終わりもある。それで、死んで一巻の終わりになる人もいるけど、死なないで一巻の終わりにたどり着く人が実は、いっぱいいる。
 そういう人は、一巻で得たものを次の二巻に持って行く力があるんだ。君の得た物は、あまりにも君の体を引き裂くようなひどいことだったけど、それすらも使って、超えていこうする生命力が君にあるんだ。それは意識には上がってこない水面下で君の体が進めていることだから、よくわからないでしょう? だけどロールケーキを食べることに集中させながら、君の精神を一時その問題から解放して、冷凍保存するように君の体が守っているんだよ。たぶん、大山さんがひどいショックを受けても死なないでいるのは、大山さんの体が、第二章への準備を進めているからなんだよ。」
 
「私に、第二章があるの?」
「うん。あるんだよ。」
 そう言うと冴馬は立ち上がって、デブ子の手を引いてその巨体を立たせた。
「今日がその第二章の始まりだよ。差し当たって、今からコンビニに行って野菜を買って、料理をしよう。スーパーはもう閉まっている時間だから。」
 デブ子は魔法にかかったように、こくんと頷いた。そしてしばらく冴馬が玄関でサンダルを履くところを見ていたが、デブ子は部屋の一点を見つめて言った。
「剛玉君、あたし……家で待ってる。……素敵な食材、買ってきてね。」
 冴馬は振り返ると、「うん」と短く返事した。