一昨日、師匠がうんこをしたのでトイレにうんこを投げにいったのですが、
誤って途中でうんこを落としたのか、
廊下にボール状のうんこが転がっていました。
それを見た瞬間…私の中で、何かのスイッチがONになったのか、
うんこを素手で掴んでケンさんの元へと走っていきました。
私 「ケンさん!見て!うんこだよ!!」
ケンさん 「…イヤーッ!」
私 「廊下にうんこが落ちてたんだよ!」
ケンさん 「だからって、持ってこないでー!!」
私 「ほら! ほらっっ!」
ケンさん 「やめてー!」
私 「ケンさん、任天堂DSで遊んでばっかいないで、
ウンコ投げでもして自分らしさを取り戻そうよ!!」
ケンさん 「わー(俺)は、ゲームをしているときが一番わ(自分)らしいのであって、ウンコを投げたりするわ(自分)らしさは、ねえ!」
私 「ほらっ ほらっっ」
ケンさん 「きゃー!やめてー!!やめてよー!!」
ってまあ、そんなわけでうんこが廊下に落ちていると驚くよね!
ところでタイトルの「しゃらくささ」なのですが、
最近、口癖が「しゃらくさい」であって、何に対してしゃらくさい!と思っているのかというと、言葉と実態のずれに対してたいそう、しゃらくささを感じているわけなんですな!
この間「蟻さんぶっちん」の記事を新聞らしくアレンジして育児日記に載せたところ、「蟻を殺すなんて…。いのちは、大切にして欲しい…」との、読者様からのお電話が新聞社にあったそうです。
「い、いのちですか……?」新聞社の人「そう~。やっぱり、いのちというテーマは今皆さん敏感になってることですし、お電話された方は育児の活動をされてる方で、よそのお母様方がスイッチさんの記事を読んでね、蟻を殺したりするのが良いことなんだと伝えてはならないと思ったらしいんですよね…。」
「ハア。でも、昔の子供ってみんな、蟻つぶして遊んでましたよね…? 返って虫を殺さなくなった今の世代が、殺人とかそういう事件を起こしてるっていうか…。」
「ああ、そうですね。蝉の羽むしったりとか、やりましたね…。でもきっと、そういう気持ちはあの記事では伝わらなかったんじゃないかと…。」
(って、伝えるつもりないですもん!!蟻ぶっちんにテーマも何もないですよ!!)
少しだけ、人の「自分の思い通りに他をコントロールしたさ」を感じてぞっとした出来事でした。ひええ!
コラムの内容を粛正せよというほど他人を直したい気持ちって一体、なんなんだ…。自分で「蟻は殺さないようにしよう」ってコラムを書けばいいのに…。
いのちっていう言葉を、深く考えて生み出した人は
まさしくこれしかない言葉で使ったはずなのに、
「そうだ!いのちだ!いのち、いのち!」
と、便乗して使われだすと、どんどんもとの形から遠ざかってしまう…
気がしてならないのです。
それで、自分では深く考えもせずにいのちがどうのと言われると、
どうにもしゃらくさく感じてしまうのです。
あと、実態から遠のきつつあると思う言葉…ボランティア。
ボランティアもね、聞こえがいい分損だよね。
普通に「ただ働き」って言えばいいのにね。
ただ働きの方が素晴らしいのにね。
なんといっても、タダで働いていいほど魅力的な人達と仕事するわけなんだから。
タダで働いていいほど叶えたい夢なんだから。ボランティア…みたいに、なんか他の良さげな意味も含んでそうな感じを持つと、多様化された意味に惑わされる気がするのですよ。奉仕精神でやってるわけじゃないと思うのね。自分で決めたただ働きッスよ。その方が潔いと思うのですね。
それで、しゃらくささはどこから来るかというと、
本当のこと(事実)を言ってない現場から現れるんだと思うんですね。
やはり、実体からの乖離が一番しゃらくさいと思う。
思っていることを言わない現場とか。そう、大概の場合は会社。
どちらかというと会社とか、お金で繋がった組織の方にしゃらくさいことは
多くあると思うのです。
が、ボランティアも言葉だけが横行して
「ボランティア、すばらしい」とか
そういう風潮が出て言葉と実体ががっちり一致しなくなってきたら
やばいと思う。
「タダでも働きますよ。
奈良さんもgrafさんも格好いいッスから!」
っていう、事実と違わないところが残っていけばいいなあと思ってる次第です。