今夏は、舞踏家の雪雄子さんに連れ添い、
東北中の神社や聖地を訪れ、彼女の舞踏をただひたすら
見る 行為を繰り返していました。
夏が過ぎて秋が来て。
ようやく、言葉が一つの形になったみたいです。
野辺行脚は野辺地のサントリー蔵置場での舞踏に始まり、浪岡城跡、
小牧野ストーンサークル、西馬内盆踊り、市浦村・山王坊日吉(ひえ)神社、遠野・早池峯神社と。恐れなすほどの自然の力が凝縮した場所で、その土地の持つ神の声が聞こえているかのように彼女は静かに踊りました。
日吉神社・苔の神殿
遠野・早池峯神社
身体が動くというのは一体、どういうことを言うのでしょうか。その場所の空気に添わせるように彼女は動き、舞いました。
小牧野
ストーンサークル
夏の蝉が産まれ、鳴き、夏を賛歌して死に至るように、生命には始めと終わりがあります。 雪雄子の生み出す舞踏は、舞踏の始まりと終わりの間に生きて、光となり、死ぬまでの全てが凝縮された、「エッジを持った生命」(中沢新一)であると、私は確信しました。
指先の、ほんのわずかな動きで。こんなにも多くのものを表現できるのかと震えが走ります。観ている我々は彼女の舞踏の中に引きずり込まれ、もう一度、生と死を認識するのです。
彼女は身体で蘇らせていく。忘れてはいけない光景を。生きている大切な光を。
早池峯神社・鎮魂
野辺行脚の中で一つだけ異色を放った、富田町のライブハウスで行なわれた舞踏。 タイトルは、「ジャニスに捧ぐ」。
舞踏生活三十五年目にして彼女は、七十年代的な穴蔵のようなその場所で、自身が舞踏家として初めて踊ったジャニス・ジョップリンの音楽で、まさに産まれるという瞬間を、彼女自身の身体で蘇らせたのでした。
舞踏の音楽に使われたロシア語の朗読、ブリジット・フォンテーヌ、激しさを増すアブラゼミの哄笑、訪れる夏の残照、ジャニス・ジョップリンの「サマータイム」……。
過去と現在を行き来して。どうにも哀しく世界と交わる瞬間が舞踏の中、何度も訪れます。彼女の踊りを見ていると、胸の奥から苦しいほどの何かが溢れてきます。
身体の中で何かが死に、また一度、生まれる。このような感覚をもたらしてくれるのは、芸術に他ならないと思うのです。