無意味せんげん - 山田スイッチ –
山田スイッチは、一切意味を求めません。ちなみに7歳男子と3歳男子を田舎で子育て日記。
2011/10/03 カテゴリー: 子育て。 タグ: 等価 生と死は、等価 はコメントを受け付けていません

昨日は、青森市の子育ちサークル「モモ」さんに呼ばれて、

アピオあおもりでお話させていただきました!


昨日のお話メニューは、



・「地獄は本当はないというお話」と、

・「生ゴミが土に還る話」

・「生と死は等価だと、小児科のお医者さんに聞いたお話」

・「耳鼻科の自動ドアに正拳突きをする息子の話」

・「うちの息子が、どうしておかあさんはちんちんに名前なんかつけたの?

と聞いてきた話」など。


小学校の皆さんも、お母さん達もみんな

大笑いしながら聞いてくれたので良かったです!


最後の、生と死は等価だというお話は、

震災後に私がずっと悩んでいたことに対して、


長野県に行った時に

原始感覚美術祭の打ち上げで、普段はしゃべらないという、

写真家の本郷毅史さんのお父さんが

語ってくれたことです。


私は普段から、生きていることがすごくしあわせで

「あした殺されてもしあわせ!」

というのが口癖なのですが。

果たして、もしも自分の子が死んでしまったりしたら、

自分の人生はどうなってしまうんだろう?


って、真剣に考えていたんです。

もう、何もかも終わりになっちゃって、

「あした殺されてもしあわせ!」 なんて

二度と言えなくなるんだろうかって。


だけど、何かそこに、なんかおかしいっていう

違和感があったんですね。

あれ? 変だぞ? っていう。


私は、自分は明日殺されてもしあわせだと

言い切れるくらいに、しあわせに生きているのに、

他の人のことを、

明日死んだら「おかわいそうに」と

決めつけているのではないか? と。


自分だけがしあわせで、他の人は不幸だと、決めつけているんじゃないかと。

そこに気付いたのです。


そうだ、自分があした殺されてもしあわせならば、

自分の子であるこの子達も、そうなのだと・・・。


そう思っていたときに、

昼に雪 雄子さんの舞踏を見られた本郷毅史さんのお父さんが、

ぽつりと語り出したのです。

「私は、小児科の医師をしているので、

一年間に生まれてくる子どもは2000人は見ています。

それと同時に、

一年間に死んでしまう子供も、今年は321人見ました。


そうして仕事をしているうちに、

自分は、生と死が等価であると感じるようになった。


これは理屈でなく、ただ生と死が等価だとしか

思えない。それが、今日、雪先生の舞踏を見て、

舞台の上で、生と死は等価であると表現されているのを見て

……」


言葉の最後は、うまく聞き取れませんでしたが、

本郷さんのお父さんが、すごく大切なものを感じて、伝えようとしてくれてるのが

伝わってきて。

それをとなりで聞いていた本郷さんのお母さんが、

にこやかな顔に、涙を浮かべて聞いておられました。


生と死は、等価である。


雪 雄子さんの舞台では、

天上から吊された蚊帳は、

母親の母胎であり、宇宙を表しておられます。


いつも新しく生まれ、舞台の上で死に、また生まれ変わる……

そんなイメージを私は受けます。


生と死を行き来する舞踏は、

年間2000人の生死を見つめる本郷さんのお父さんに、

「生と死は等価である」という

言葉をもたらしました。


ああ、そうか。

私は、何故に「おつらいでしょう」「おかわいそうに」と、

その人のことを知りもしないで、死の意味を勝手に決めつけていたのだろう。


私が、あした殺されてもしあわせなら、

他の人もそうであったろうに……。


そう思うと、自分の見ている世界もまた

ひっくり返って現れてきました。

「生きていてよかったね」

「生きていて、しあわせだったね」


ええ、本当に。


誰もかれもみな、生きる喜びに満ちあふれて。

ここにいるということは、そういうことなのだと

深く感じたのでした。