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どこまでが運命?

今、異例中の異例と言われる聖人の


聖テレジア(テレーズ)の自伝を読んでいるんだドグけど、





キリスト教でも仏教でもアプローチがすごいなって


思うのは、





すっごいたくさんの人が普通に死ぬところドグ。





里中満智子先生の描いた「ブッダをめぐる人々」


の中でも、


生まれた子供がすぐ栄養失調で死んじゃって


死体を燃やすお金もないキサー・ゴータミー


(痩せたゴータミ―というあだ名)が





死体置き場に赤ちゃんを置きに行って


もう一回赤ちゃんにお別れを言ってくる……! と


思ったら、


野犬に食われてたという





衝撃的な一コマから始まるんだドグ。





で、聖テレーズの親はしょっちゅう妊娠していて


しょっちゅう子ども生んでるんだドグけど、


けっこう病弱で次々に死ぬんだドグ。





この子も死んだ、あの子も死んだ、


辛いと思っていたら今度は6歳まで育った子が死んだ。






しょっぱなからこんな「人、めっちゃ普通に死ぬ」原理を聞かされてくると、


「意味はわからないが神の思し召しなのだろう」





という考え方もあり得る気がしてくるんだドグ。





そう。敬虔なキリスト教徒はどんなに納得がいかないことが


起こっても、


「神様がお望みになった」の一言で納得してしまえるんだドグ。






この世の中には納得できないことがたくさんあるはずなのに、


全ては神の思し召し。望まれるがままに


と考えて生きることは、


完全なる運命論を生きることだと思うんだドグ。





「なぜ私の子が? と考えるなんて、せんなきこと」





そう言ってしまえる人しか


「今を生きる」の境地にはたどり着けないんだドグ。





振られて悲しいのも、子どもが死んで悲しいのも、


病気になって辛く「なぜ、私が?」と思うのも、頭が過去にいる証拠になってしまうドグ。





今を生きる人は、「しょうがないじゃん。次!」


と言って過去から現在へ楽に行ってしまうドグ。


すべてが運命で決まっているならば


ただ今を生きるよりほかがないんだドグ。





でも、生まれた時から「将来何になるの? 何歳までにやるの?」


と聞かれ続ける現代の子に、


運命論を受け入れるのは非常に難しいことだと思うドグ





「そう、運命は努力で変えられる!」





と、常に信じ込まされているからドグ。





「19歳までにアイドルデビューして途中方向転換して


24歳で女優に、その後ニュースキャスターを経て


政界に40歳でデビュー」






とか、なれなかった時に焦らずいる準備ができないじゃないドグか。


運命は努力で変えられるって信じ込まされているんじゃ。


やなせたかし先生はアンパンマンを絵本にしても、


「こんな辛気臭い本、もう書かないでください」と言われ続けたんだドグ。





でも、あるテレビディレクターが保育園で一番ボロボロになるまで読み込まれていたアンパンマンに目を止めて、アニメ化の話を持ち込み、


アニメにされ、ようやくアンパンマンが日の目を見たんだドグ。


その時、やなせたかし先生はもう70歳近くになっていたんだドグ。





でも、





70歳から輝くことが運命で決まっているのなら、


40歳が普通なのも運命で決まってるし、


30歳で焦ることも運命で決まっているはずドグ。






だったら、焦る必要って何一つないんじゃないか? って


思うドグ。





今月は、思いもしなかったことばかり起こる月なんだドグけど、


どれも運命なので、受け入れていこうと思うドグ~!

 

[うちのバッチャ] 第一章 うちのバッチャ現る ーーー 01. 運命の人

第一章 うちのバッチャ現る
 
01.  運命の人
 
運命の人にはもう、出会えないのかもしれない。
そんな風に、30代も半ばを迎え子どもを2人産んだ後には漠然と、「もう、私に新しい生き方を切り開いてくれる人との出会いは、訪れないのかもしれない」と考えてしまうのですが。思いがけないところに伏兵はいるものです。
これ以上出会うはずもないというところに、当たり前のようにそこにいた人。私にとっては、結婚した相手のおばあちゃん。津軽弁で言うと、バッチャが私の人生にイノベーション(技術革新)をもたらす存在だったのです。
 
結婚したらすごいバッチャがオマケでついてきた。
まさかこんなことになるなんて思いもしなかった私は、青森県の平川市という、周りが田んぼで山に囲まれたお年寄りの多い地域に嫁ぎ、90才のダンナのおじいちゃんと、84才のダンナのおばあちゃん、38才のダンナ、今年4才と8才になる子ども達と一緒に暮らしています。
青森県で暮らす醍醐味といえばやはり、お年寄りとの暮らしでしょう。
お年寄り……一言で言ってしまうにはあまりにも、我が家のバッチャは規格外なお年寄りなのです。
変わった人が好きな私はダンナであるケンさんを本当に風変わりな人だと思って結婚したのですが、今ではケンさんよりももっと風変わりなバッチャに心を奪われ、「どうしてもっと早くに気付かなかったの?」と、思っているのです。
そんなバッチャの性格は、一言で言うならダイナミック……。破天荒とは、正にバッチャのことだと思います。
 
私が嫁いできた当初、わが家の2階には20年ほど前から「1人用サウナ」というやっかいな昭和の遺物がありました。
サウナが銭湯に置かれていなかった時代に重宝されていたその家庭用サウナは、電気代が恐ろしいほどかかることから家族に利用されなくなり、そのサウナを買った当の本人(義父)ですらサウナを置き去りにして、義母と自営で営んでいる事務所の2階に移り住んでしまいました。そしてサウナは……20年近く、ただのやっかいな箱として放置されていたのでした。
タンス2台もの大きさのそれは非常に重く、横幅は部屋のドアをくぐり抜けることが不可能でした。(どうやって家の中に入れたのでしょうか?)
このサウナをどのようにしてこの家から追い出すか……私は嫁に来てからの3年間、ずっとそのことで悩んでいました。サウナ……サウナが邪魔……。そう考えあぐねていた時にその事件は起こりました。
私が買い物から帰ってくると、突然家の前にがれきの山が積まれてあったのです。事故でもあったのかと思って駆け寄りよくよく見ると、それは粉々になった例のサウナでした。
「ええっ!」
そこへうちのバッチャが来て、あっけらかんとして言いました。
「あんまり邪魔だはんで、バラバラさして、窓から投げたんだねん!」
ふと見ると、その手にはチェーンソーが握られておったのでした……。
一体、どこの世界にチェーンソーで家具をバラバラにするお年寄りがいるというのでしょうか。都会では、お年寄りはカルチャーセンターに通って俳句とか社交ダンスなんかをたしなんでいるはずなのに、うちのバッチャはもう死んでもおかしくないような年齢で、チェーンソーで家具をバラバラにしたりするのです!
天を破るほど荒い性格……破天荒とはまさにこのこと。
バッチャの心はまだまだ十代なのです。
 
 
 
 
 

青森県の最強バッチャが繰り広げる、愉快で楽しい村のお年寄り情報満載エッセイ集!   

これを読んだら即・元気!!

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逆説的☆運命論 ~唐桑 星祭り~

女の子はよく「どの人が運命の人なのかしら?」「早く運命の人に会えないかしら?」

という考えを持つのですが。


もしも運命というものが存在し、また人が運命通りに生きていたとするのなら、

運命以外の人間には出会わないわけでして。

今現在自分の周りにいる人は、誰も彼もが運命の人なわけです。


「運命のとなりのオバサン」とか、「運命のバイト先の店長」とか、「運命のその辺を歩いていた犬」というものが存在するはずなのです。


私たちが行動を起こす時は、

必ずしも使命感に駆り立てられてとか

大いなる目標の下にという、

わけではないと思います。


そう、たまたまなんです。


たまたま、そのような考えを持って、たまたま、行動に移した。

そういうことの方が多いような気がします。


ですが、その「たまたま」の一挙手一投足が

運命によって決められていたとするならば。

適当にそうなっていた運命から「何かを感じ取れ」という

指令が降りているのやもしれません。


それで多分、その指令を感じ取らないと

次のステップには進めない仕組みになっているの。

予想だけど。多分。


今日、青森はとても風が強くて広範囲に吹いていて、

その中を保育園バスを待ちながら、

舞踏を踊っていたのですが。


(村の人がそんなには通らないので、私は保育園バスを待つ間

ほとんど毎日、舞踏を踊っているんです・・・。)



今日の風の感じは、とても良くて。

そもそも風に吹かれていさえすれば、

何もいらないんだっていうことに気づかされて。


そういえばそういうことに気づかせてくれたのは、

私の舞踏の師匠である雪 雄子(ゆき ゆうこ)さんだったと

思い出して。

私が風や、田んぼの稲の揺れを

こんな風に身体の中に流れ込んでくるものとして

感じるようになったのは、

雪さんのおかげなんだとわかって


今更ながら、雪さんって運命の人なんじゃね? 

と思った次第なんです・・・・。


今更・・・・・。


そんな雪 雄子さんは、23日、気仙沼で踊ります!

毎年、気仙沼の唐桑半島で開催されていた、「星まつり」

今年は地震と津波の影響で大変だったと思いますが、

「23日は気仙沼で踊ります」と言っていた雪さんは

何の迷いもなく、きれいでした。



星祭り、観てみてね!


半造 星まつり

場所 唐桑半島半造園地 入場無料

期日 7月23日(土)24日(日) 午前10時~午後9時

内容 フリーバザール、炊出し、郷土芸能、カラオケ大会、コンサート、ダンス、ワークショップなど


ご詳細↓↓↓↓ 唐桑ラジオ

星祭り 実行委員会


 

運命の人は本当はいないけど、いる場合もある。

関係ない話ですけど、
運命の人がいる場合ってのもあるんじゃないか? と思って
考えてみたのですが。
それはどんな場合かっていうと、
自分で選んだ時だと思うのですよ。

だって、他人に「この人は運命の人だ」と言われて信じられるのって、
おかしいじゃないですか。
たとえ霊験あらたかな占い師にだって、経験豊かな上司にだって、
言われて信じるのって変……ですよね?
自分でそう思っていないときは特に。

だから、最近特に口を酸っぱくして言うのは、
「自分の勘を信じなさい」の一言なのです。
人にこいつが運命だなんだと言われたからって、
そんなの気にしてどうするんだと。

ただし、問題は運命も何も、「出会えないから困っている」という
私のお友達からの多数意見なのです。
じ、人口の問題なのか……?

 

運命の人など本当はいない。

実をいうと、最近感じているのは
「運命の人」というものはいないのではないか?
ということなんです。

我々女子は「運命の人」を求めてしまいますが、
その求める「運命の人」は、大概の場合は
「自分の運命に都合のいい人」だったりするんです。

男性が求めるいい女が実をいうと
自分にとって「都合のいい女」であるように。
大概の私たち女子にとって「運命の人」とは、
「あたしの運命を切り開いてくれる人」だったりするのです。

できることなら、損な相手よりは得な相手がいいとか、
できることなら、貧乏人よりはお金持ちの方がいいとか。
できることなら、この人と付き合ったことによって
自分の運が開けるような「運命の人」がいいと思いがちなのですが。
果たして、そんな「運命の人」が、本当にいるのかどうか。

だけど、あいつらはひょっとすると
運命の相手同士なのではないか?
あのお笑いコンビは。
借金を背負って借金取りに追われながらも、
一緒に返していく覚悟を持った、「かつみ&さゆり」は。
ダメなヤツだと知ってて相手を背負っていきたいと思う。
そんな「どこまでも損をできる相手」が、実をいうと運命の相手なんじゃないかと思っているのですよ。

だけど普通は、「どこまでも損」なんていう、キリスト教的自己犠牲の精神には
たどり着けないものです。

キリスト教的自己犠牲の精神を持たない私の、
子育て中の被害妄想というのは、今思うに相当なものだったのですが。
何故、そこまで時間がないことを不幸のように
感じることができたのか。
不思議なくらいに被害者意識はバリバリで、
自分をこの世で一番不幸でがんばっている母親だと思ってたし
そこを否定されると、本当に悲しくなってしまうような精神状態でした。

それらは全て、比較することによって
生まれたものだと思います。

過去の自分と。

自分の時間があって、自分一人のために生きててよかった自分と比較して、
苦しんでいたのだと思います。
その許容量の狭いことといったら、半端ないです。
パねえッス!

そういう時に、与謝野晶子が11人の母親で、
夫の与謝野鉄幹が落ちぶれ、働かず。息子の産着を買うお金もなかった時に、
風呂敷を縫って産着を繕い、11人もの子供を育て上げた、とか

韓国動乱の際に自分とは関係のない道に捨てられた孤児達を、
どうしても見捨てることができず、何人も何人も引き取り、
(その引き取った孤児の数は133人といわれている)
お金がないので産着も買えず、青空理髪店を営み、
落ちている軍手を拾ってほどいて子供用のえりまきに編み直して着せた
望月カズ※「愛は国境を越えて」のモデルになった実在の人物 の話を聞くと。

体の、底の方から力が溢れてくるのを感じるのです。


望月カズにとっては、その捨てられた孤児たちが、
運命の相手だったのではないか? と。

与謝野晶子にとっては与謝野鉄幹が。
その運命の相手によって、彼女たちは彼女たちにしかない
ただ一つの人生を歩んでいくことになります。

私の人生は、私にしか訪れない。
この子の人生も、この子にしか訪れない。

それを思うと、今、一緒にいるジッチャとかバッチャとか
師匠とかケンさんとかは。
半端無い運命共同体のように感じられてくるのです。
……嫁(私)のせいで家の恥、さらされまくりだけどね…。