原始感覚美術祭から無事帰ってきました。
プリズムのような太陽。
縄文をやると、翌日の太陽と空がとても美しく見えます。
これは気のせいではないような気がする。
青森から電車を乗り継いで、会場の海ノ口上諏訪神社に着いたのが 午後五時五十七分。
夜の闇を感じたいと、岡本太郎の「美の呪力」を読んでその怖さと見たさが入り交じった気持ちが一番ザワザワすると感じた私に、夜の闇が迫ってきました。
田んぼの間の細い道に、虫の声と水の流れる音が迫ってきます。たどり着いた神社は杉の森。大きな杉の木を見上げると、ぽっかりと空に穴が空いていてそこが、天と地をつなぐ場所であるような不思議な思いにとらわれます。
夜の闇はもうひたひたとその辺を濡らしているのに、神社の奥の緑は光って見える。そこで、田口ランディさんの声から、マツリはスタートいたしました。
「精霊は、ここにいる。ここに、ここに、ここに!」
響く声と精霊の気配、そこにいる誰もが精霊のように見えて来ます。火が焚かれ、ゴウゴウと燃える音がする。火の音と声が響き合って、そこにシャーマンが現れ、踊る。マブライ・マブリーとは、沖縄の言葉で、「さまよえる魂」のことなのだそうです。
石坂亥士さんの太鼓の音が、ぐわんぐわんと魂を揺さぶってゆきます。「ああ、どうにでもして」と思う。太鼓の音は、全てをどこかに連れ去ってしまう。ネプタ祭もそう。あの音を聞くとどうにもならなくなる。私たちは、身体を持っている。どうにもならない身体。それを、忘れてしまっている。湖からの湿気を帯びた空気が身体をとらえる。まるで、「思い出して」と言っているよう。
台湾の整体師の女性に今福龍太さんが言われた言葉、「書くのをやめなさい」は、思いがけないものをたくさん含んで、真実を語っていた。今福さんはペンをとり、絵を描くように書いてみることを始める。パソコンの前にいつまでも座っている私たちは、大丈夫だろうか。生命の渦を、感じているだろうか。うずまき。ぐねぐねとした、エネルギーの渦。
帰りのバスで、ランディさんが原始感覚のことを「生命エネルギー感覚」だと教えてくれた。昔の人は、エネルギーをとらえていた。螺旋を描いて渦を巻くエネルギーを。銀河は渦でできている、自然界のあらゆるものは渦でできている。私たちの身体にも、DNAの螺旋がある。そういった、この世に満ちあふれているエネルギーを受信する感覚。長野は、もじゃもじゃっとしたエネルギーに充ち満ちていて、普段、身体を使わない私たちにも、言語にならないような渦を感じさせる。
だから、キム・ヨンビンさんの木の枝が空中に浮き、まるでヘビのように木立の間をうねるあの作品に誰もが、心をとらわれてしまう。頭ではなく身体で、みんな、感じているのだ。だけど、すべてを信じてしまうことだできない。残像だけが残る。それは、頭に戻してしまっているから。そうじゃないよ。頭でどうこうしなくていいよ、そのまま身体で感じた方がいいよ。その渦を。
空にはいつも、渦巻きがある。雲の中に、あちらこちらに。縄文をやるということは、その渦に気付くこと。ただ単に、空が美しく見えることだと思う。
帰ってきて、青森県の空。岩木山がきれい。来月の10月13日は、外ヶ浜町のストーンサークルフェスティバルで、またあの縄文人のような、大好きな人たちが集まります。あの人達のことは、見ているだけで嬉しいのです。
ただ単に空が美しく見えるということだと思う。
という件がいいですね!
境君へ
すごいでしょー
シンプルすぎるがゆえに。